夜空ノムコウ
子どもの頃はやたら怪我をする。
いまの子どもは山や川で遊ぶこともないので、ぼくらの子どもの頃ほど下草や小枝、石に転んで切り傷をつくるということも少ないだろう。
些細な切り傷であれば、すぐにかさぶたができて、治る。ところが、これがかゆい。治りかけほどかゆくなる。それで、ひっかいてしまい、また血がでる。
その度に、よく母親から叱られた。
心の傷は切り傷とは違うが、同じように、かさぶたができる。場合によって、傷の痛みの記憶をかさぶたで治さず、深層に格納してしまうこともある。
心の傷にかさぶたができた頃、そこを自分で掻きむしる、あるいは他人に掻きむしられれば、かゆみではなく、痛みが走る。時に激しく。
ぼくらはだれしも、程度の差はあれ、心の傷口にできたかさぶたをはがす行為には、敏感に反応するものだ。切り傷のかさぶたから血が噴き出すように。
要領よく、単純にすべての傷を格納庫に運べればいいのだが、何かの不安要因や新たなストレスを抱えていると、格納が追い付かない。せめて、かさぶたで覆って痛みを感じないようにしている。
ぼくらは、いまコロナという感染症への不安とストレスを抱えている。だが、感染だけでなく、それによって生まれている生活や将来への不安とストレスの方がさらに大きい。
思うように行動できないことへのいら立ちもあるだろう。そして何より、人と通常の接し方ができないことがよりいら立ちを大きくしている。
同じとは言わないまでも、似たような考え方でいてくれるのか。自分の考え、自分という人間は自分が思うように他者に伝わっているのだろうか。自分の言動はおかしいと思われてはいないだろうか…といった自己評価への不安が生まれている。
確認の手立てが薄くなり、そのための会話の時間が少なくなっているからだ。物理的、便宜的、作業的な会話は、気持ちを通わせる会話にはならない。確認を求めれば、会話は途端にかみ合わなくなる。
小学生の頃、その確認ができず、自分の居場所のなくなったとき、ぼくはある手立てを思いついたことがある。
ひとつは本の世界に埋没すること。そして、もうひとつは、いまの現実を仮想に代えてしまうことだった。
じつは、自分はそこにおらず、地球を眺める宇宙空間に浮遊するカプセルの中に本当の自分がいる…そう思うようにした。
自分を受け入れてくれない世界はあるけれど、地球の上で他のだれかとして、そこに自分がいるだけだ。そう考えることで、受け入れらない辛さや寂しい現実をやり過ごそうとした。
そうすると、自分のことはどうでもよくなり、受け入れらない人たちに歯がゆい思いをすることも、怒りを感じることもなくなった。
不思議なことに、それ以上に、その人たちが自分のように宇宙でひとりではないことを喜び、地球の上で幸せであってくれたらいいと思えるようになるのだ。
それまでもぼくは夜空の向こうにある宇宙の未知に心を躍らせていたけれど、一層、宇宙や宇宙物理学、数学の世界に興味を掻き立てられるようになっていった。
ペルセウス流星群がいま地球から一番よく見える宇宙を飛んでいる。かさぶたのある人は、夜空を見上げてみるといい。東京では見られないが、あの夜空のむこうに、きっと何かがあるはずだから。