秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

アバンギャルド

やはり、風邪だった…。

が、しかし。早めのイソジン。早めのビタミンC。普段よりカロリー高めの三度の食事と果物摂取。そして、吉田院の2時間コースのマッサージに、熱い風呂。爆睡。まだ、風邪の残り香はあるが、だるさもとれて、頭もクリアになる。

最近では、マッサージのとき、α波が放出されているのが、自分でもわかる。脳の中の汚れやゴミが、取り除かれていく心地よさ。

体調が回復したところで、渋谷の美容師Sのところに出向く。いつもなら自宅まで来てケアしてくれるのだが、先代から店を引き継いで忙しくなったのもあり、オレの家に来れるのが今週土曜日過ぎということで、久しぶりに店に出向く。

オレの鼻声を聞いて、「こてこて、風邪じゃないっすか」。確かに、鼻声は、鼻声だが、多少咳も出るが、昨日とは雲泥の差だというのが、オレにはわかる。火曜までは、外に出るのもおっくうだった。

さっさと風邪を治そうとしたのは、原稿書きもあるが、東映のCプロデューサーに雑談のようにして、相談されていた企画のアウトラインをつくりたいから。なんとないイメージはあったが、先週末から週明けの体調不良で、頭が働かない。

ここは、開き直って、徹底休養しようと決めたのがよかった。気がつけば、原稿書きもあったからだが、まったく仕事抜きの時間をこの2ヶ月ばかり過ごしていなかった。

浜松町のOちゃんのいうとおり、どこか気弱になっていると、物事を前に進めるパワーが減退する。そこに体調の不良が重なると、なおのことだ。オレは原稿書いているときは、人格が変る。気弱な面がもろ出る。それは評論でも、戯曲でも、脚本でも同じ。悲惨な奴らのことを思い、気持ちが同化してしまう。

書き物や自分のやりたい仕事だけで食えれば、それでいいが、オレは、抱えているものが多すぎる。

食うための仕事が思うようにいかない状態は、自分の仕事をするいい時間をもらっていると思うのだが、根が貧乏性のせっかちだから、あれこれイメージしている作業が思う通りに進まいないと、いい時間をもらっていることを忘れ、焦燥感に襲われたり、へこんだりする。

どうやから、そうしたオレの落ち込みは、このブログを読んでくれている連中には、完全に読まれているらしい。というのを、この間の同級生仲間の言葉や浜松町さんの書き込みで気づく(おそっ!)

幾人かには話しているが、昨今の不況もあり、自主制作作品の売上げと多少の受注業務だけで事務所を維持できる規模に、マイナーチェンジしようと、実は、画策している。それは隠居しようというのではない。自分のやりたい仕事をやる時間とゆとりをつくるためだ。それと、余命いくばくもないであろう、親父のこと。

しかし、そのための段取りや手配には、それなりに労力がいる。自分のやりたい仕事をやるためといいながら、根がいい加減だから、ちょっと油断すれば、安きに流れるというキケンもある。そうならないために、攻めの作業もやり続けていなくてはならない。ところが、この二つ、方向性がまったく違う。

その谷間でゆれている。基本、攻めには強いが、守りにこてこて弱い。それは仕事でも、女性でも同じ。

サラリーマン時代、よく、オレに50騎の兵を預けろといっていた。勇猛な50騎がいれば、難攻不落の城も、3000の敵でも蹴散らしてみせる。権謀術数を用いて、意表を突き、わずかな手勢で、新しい地平を拓く。基本、オレには、それが性に合っている。

敵が陥落し、治世を敷くようになったら、そこにはいたくない。オレのようなタイプは、邪魔になるだけだ。だから、また、次なる至難な戦いの地へ立ち向かう方がいい。つまりは、守りには弱いといこと。

かつて、学生の頃、亡くなったロシアアバンギャルドの国内随一の研究者水野忠夫先生に、ロシア革命期の演劇を学んだ。

劇作家、詩人マヤコフスキーの死を、先生は、演劇の永久革命を求めた結果の死だったかもしれないと分析されていた。実際、スタニフラフスキー演劇を全否定して登場した、革命期ロシアの演出家メイエルホリドは、その後、粛清されている。芸術は、常に、キケンでなければならない。

新しい地平を拓く者は、治の世には向かない。「乱にあって治を忘れず、治にあって乱を忘れず」は、孫子の言葉だが、それは、政治家、治世者に求められる倫理。芸術は、どちらかといえば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の世界かもしれない。危ういところがなければ、いい作品は生まれない、つくれない。

もちろん、オレがそう思ってしまうのは、大嫌いな太宰と大好きな三島の影響もあるのだが…。

二人とも、いま考えれば、あきらかに、アバンギャルド。つまりは、価値の破壊者。