初心忘るるべからず
言葉にせよ、行動にせよ。あるいは、それらをベースとした主張にせよ。
ありがちな景色へ逃げるという習慣が経験を重ねるほどにふえる。それだけではなく、それがうまくなる。うまくなって、それが技になってしまう。
未熟なときには、その逃げ場を知らない。真摯であるとか、生真面目であるとかいう次元の話ではなく、なにもわからないから、ありがちな景色というものを知らないだけのことだ。
だが、それが経験があれば、ふっとたどり着ける世界やあの手をつかえば…といった易きに流れやすくなる。それができない分、自らを追い込み、それまでにない世界を偶然にでも、たぐりよせることができる。
だから、世阿弥はいう。「初心忘るるべからず」。これは、未熟な者への諫めではなく、熟練した者への諫めなのだ。
いいかえれば、既成の常識や経験にしばられた、価値体系や経験主義。それらが生む形骸化から、自由になれ。でなければ、鮮烈で、新鮮で、神経にまで響くようないい作品、あるいは、よき地域や社会はつくれない…そういっていると私は思っている。
たとえば、原発というものがなかった社会、時代。あるいは、震災というものがなかったとき。それによって失われたものは私たちにはなかったはずだ。いま、それがない、あるいは失われていることで、もし、私たちが、この先のことに不安を持つとしたら…
それは、新しい価値の体系やすでに形骸化したものにしがみつき、その延長でしか、つまり、経験による、ありがちな景色に逃げようとしているに過ぎない。
震災と原発事故が私たちに教えたのは、NHK「日本人は何を目指してきたのか」で、双葉地区、大熊町の原発誘致以前と誘致後、そして、原発事故によってえた教訓をえぐった、その通りなのだ。
技術革新も、文明の歩みもすべてが悪ではない。だが、これまでの基準や価値に、基づいた、人や人の生活を犠牲にするものから、あるいは、金銭の引き換えによって、自立や自尊、独立を阻むものから、異なる基準、価値。ありがちな景色に逃げない決意が求められている。
いいかえれば、既成の常識や経験にしばられた、価値体系や経験主義。それらが生む形骸化から、自由になれ。でなければ、鮮烈で、新鮮で、神経にまで響くようないい作品、あるいは、よき地域や社会はつくれない…そういっていると私は思っている。
たとえば、原発というものがなかった社会、時代。あるいは、震災というものがなかったとき。それによって失われたものは私たちにはなかったはずだ。いま、それがない、あるいは失われていることで、もし、私たちが、この先のことに不安を持つとしたら…
それは、新しい価値の体系やすでに形骸化したものにしがみつき、その延長でしか、つまり、経験による、ありがちな景色に逃げようとしているに過ぎない。
震災と原発事故が私たちに教えたのは、NHK「日本人は何を目指してきたのか」で、双葉地区、大熊町の原発誘致以前と誘致後、そして、原発事故によってえた教訓をえぐった、その通りなのだ。
技術革新も、文明の歩みもすべてが悪ではない。だが、これまでの基準や価値に、基づいた、人や人の生活を犠牲にするものから、あるいは、金銭の引き換えによって、自立や自尊、独立を阻むものから、異なる基準、価値。ありがちな景色に逃げない決意が求められている。
でなければ、私たちではない人々、単純に、自分の息子や娘、またその子どもたちに大いなる禍根と負担を残すことになる。
初心忘るるべからず。ありがちな景色に逃げないという厳しさや苦しさを生きない限り、未来を見ることも、紐解くこともできないだろう。
ひとりの人間としての尊厳すら、守りきることはできない。
ひとりの人間としての尊厳すら、守りきることはできない。