秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

自責点がある世界観

EUがスペインの不良債権処理に向けて本格的に動き出した。ギリシャと違うのは経済政策の縮小化は義務づけれられていない。当然ながら、ギリシャに比べたら、スペイン経済の規模の大きさは比較にならない。
 
これまでポルトガルアイルランドギリシャが緊急支援を受けているが、スペインの支援は、10兆円規模。そのほとんどは不良債権を抱えてるスペインの銀行支援に向けられる。
 
ユーロ17か国が、条件付きでなくスペインの支援に向っているのは、次にくると予想されているイタリア危機を含め、その影響が大きいからだ。経済規模が大きい分、EU全体ばかりでなく、世界経済へ与える影響ははかり知れない。17日のギリシャの総選挙の動向によっては、ギリシャ行財政改革が進まない可能性もある。その余波をスペインへの経済支援で食い止めようというねらいだろう。
 
オレはよくEUの精神を語るとき、サッカーを例に挙げる。
 
国境を隣接し、陸続きか、せいぜい、トーバー海峡を渡る程度の距離にしかない国々が、長い歴史の中で経験してきたのは、国が国としてあること、人と人が地続きの中で生きることで生まれる、理不尽さと不条理さだ。
 
彼らは、自分の親や祖父母、曾祖父母同士、そのまた先祖が時には殺し合い、また時には、その殺し合いの恩讐を越えて連合し、他の国と闘うという歴史を生きてきている。国家間の裏切りもあれば、国内における分裂離合もあった。そして、いざ戦争となっても、自軍が放った大砲によって、味方を殺すということを条理のようにやってきている。
 
サッカーというスポーツは、このヨーロッパ精神をそのままスポーツにしている。だから、自責点などという他のスポーツでは考えられない不条理なルールがあるのだ。あるいは、敵のシュートが味方のからだにあたってゴールになる…という不規則性も計算されている。きれいに得点をとるだけでなく、え、こんなことで?…が得点になる。そもそも手をつかってはいけないというサッカーの姿そのものが、不条理さそのものなのだ。
 
そうした歴史を生きてきて、彼らの中にあるのは、人が生きていくこと自体を含め、国同士が協働していくには、不規則性や不条理さ、理不尽さも協働の中に組み込まなくては成立しないということがよくわかっている。つまり、不規則性があること、不条理さがあっても、全体がまとまっていくには、重箱の隅をつつくような規則性を求める議論をしていても仕方ない…ということを知っている。
 
かたやこの国は、実に規則性にこだわり、不条理な現実に眼をそむける。不条理さはあってはならない…いけない…ということが政策の基本軸にされる。この国で、この数十年、アメリカの猿まねで、実に愚かで、現実感のない政策が生まれ、政治が運営されるのは、こうしたことを背景にしている。かつてのある時代まではそれでもなんとかうまくいった。しかし、いま、そうした愚直さが、かえって、大衆からも世界からも立ち遅れた政治を生んでいる。
 
国会中継をみていても、議論は野党も与党も、建前論と規則性を求めるものばかりだ。財政出動が必要な時代に、行政改革抜きで増税を進めようとする議論も、行財政の改革は一体であり、行政改革なくして増税議論は意味がないという議論も、もっともな議論ながら、そこにEU的な世界観がない。
 
財政出動をすれば、リスクは伴う。しかし、EU諸国は、そうしたリスクを生きながら、終わってしまった資本主義社会の凋落から脱却し、雇用から子育て、そして社会保障制度の細部まで、長い時間をかけて新しいシステムをつくり出してきた。前にもいったが、EU17か国のうち、資本主義を標ぼうしている国は二か国に過ぎない。
 
すべてEUがいいとはいわない。だが、少なくとも、いまこの国に欠けているものの多くをEUは持ち、経済の危機的状況の中で、あえて不規則性にこだわり続けている。
それは、だれのための国か、そしていま、自分たちの国は狭隘な国家論などに縛られず、どこを目指さなくてはいけないかを治世者たちがよく知っているからだ。
 
だが、巨大富豪社会、貴族社会の中で、彼らはなぜ、それを選んだのか。答えは簡単だ。そうした世界観のある道を歩まなければ、いつでも市民が蜂起し、治世を変えるための市民革命があることを歴史の不条理さの中で知っているからだ。