秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本の大きな問題

サッカーというスポーツが日本において、定着することは難しい…という議論を、いま、文部科学省副大臣鈴木寛氏とやったことがある。
 
鈴木氏は、通産官僚時代、博報堂と組んで、実業団サッカーをJリーグ、地域密着型のプロスポーツに変身させた中心人物のひとりだ。
 
ヨーロッパスポーツには、ヨーロッパが生きてきた不条理性、理不尽さというのものが組み込まれている。ラグビーでは、ボールを楕円形にすることで、どこに転ぶかわからないという不規則性を意図して演出し、優勢にあっても一瞬で、劣勢に回り、トライされるという意外性を創造している。
 
サッカーには、自責点というルールがあり、味方が防御のため、あるいは、誤ってボールがふれ、意図しないでもゴールすると、これが得点となる。

地続き、もしくはわずかにドーバー海峡を渡るだけで国と国とが隣接し、国境をめぐって、王族同士の政略結婚がある一方、民族間の対立や占領、宗教対立による隷従と支配を繰り返してきた欧州。常にそこには不規則性と予見不能の対立軸があった。
 
いざ、戦争ともなると、誤って味方の砲弾が味方を殺すということもあれば、多くのいのちを犠牲にして占領した地域が、指揮のミスや誤報によって奪還されるということもある。歴史的対立の背景はあるにせよ、棲み分けをし、それまで交易や交流を持っていた人間同士が突然、殺し合いの関係に転ずる。略奪もあれば、レイプもある。

そのときには、自分の父や祖父、そのまた先祖が奴らに殺された…という憎悪がよみがえる。

人と人、地域と地域、国と国とが対立し、互いの力を競う場面において、そうした不条理や理不尽さがある…ということを欧州の人間はDNAに刷り込まれている。それがスポーツのルールにおいても反映され、それゆえに、欧州文化圏において、サッカーやラグビーという不条理性を含んだスポーツが定着した。

つまり、途轍もなく、厳しい体験と歴史認識の上に立って、スポーツがあるということだ。
 
これに比べ、徳川100年。内戦らしい内戦もなく、維新後は、市民権の獲得ではなく、皇民、臣民を押し付けられてきた日本人は、市民が生きる不条理性や理不尽さへの認識が甘い。しかも、国際紛争、戦争の経験はわずか100年程度。戦後66年に至っては戦争を身近に実感していない。
 
民族、歴史、地勢学、政治学といったすべてを含有して、欧州文化の中で生まれたスポーツを島国日本の人々がどこまで理解でき、そこにどこまで熱狂できているかについては、だから、疑問がある。
 
多くは商業主義に踊らされ、会場にたなびく国旗への思いも、海外諸国の人々とはその認識が大きく異なっている…と考えるのが妥当だ。
 
なでしこジャパンが昨年、大人気となり、最優秀選手賞や監督賞を受賞した。しかし、ついこの間まで、なでしこリーグの観戦にくる人などほどんどいなかった。Jリーグにおいても、いまだ、スター選手のいるチームや常勝チーム以外、それほどの観客動員はできていない。チームの経営環境は決して楽ではない。
 
結局、衆目を集めるのは話題性によってだけで、話題性に左右されず、根っからサッカーを応援しようという人々はごくわずかに過ぎない。テレビで世界タイトルの試合を熱狂してみることはあっても、国民全体から見れば、競技場まで足を運ぶ人は多くない。ファンの規模、ファンの認識のあり方が根本から違う。
多くのスタープレイヤーが海外において飛躍している事実を観てもそれは明らかだ。
つまり、言いたいことはこうだ。
 
絆…心ひとつに…という言葉の深さをこの国の人々は容易にはき違える。絆は容易に崩壊し、心ひとつになるためには、多くの悲しみと、場合によって人の血を流さなければ真の意味で獲得などできない。

人は人を裏切る存在であり、人は人を傷つけ、殺す存在であり、平時にあって、お行儀のよいことはできていても、非常時、追い詰められ、自分のいのちや家族が危機に見舞われば、自分自身も、そういう不条理を生きてしまうということだ。危険で、理不尽な存在であるということだ。
 
無難に、お行儀よく、キレイ事だけで、人と人、地域と地域、国と国との絆は築けないということだ。
 
だからこそ、スポーツではないが、社会のしくみが必要になる。そうしないための、そうすることによって、社会的制裁や社会参加が拒否されるというしくみがいる。
 
情緒や心情では、それを埋めることはできない。情緒や心情も戦略としては大事だが、すべてがそれで賄えると考えているところに、大きなはき違えを起こしている。
 
そこに、いまの日本の大きな問題が横たわっている。