秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

新しい共同体

向こう3軒両隣。自分の家と近隣が距離だけでなく、生活においても密接につながっていたのはいつの頃までだったろう。
 
向こう3軒両隣の近くには商店街や市場があり、その中心には郵便局と町医院があった。郵便局と医院が中心にあったのは、そこはだれでも、いつでも、いくらでも利用できる共有の場で、平時にあっては、人が交流するコミュニティの基盤であり、有事にあっては、情報センター、支援センターの基地だった。
 
すべてがせいぜい半径2キロ圏内。
 
生活の壁は薄く、その分だけ人と人を遮るものがなく、どの家の娘が嫁にいった、息子が嫁をもらった、就職した、進学した、あるいは、ご主人が出世したといった話はあっという間に広がった。儲かってるらしい、暮らし向きがよくなったなどの噂はそれ以上に広がりが早い。
 
同時に、うまくいっていない情報も広がる。それを揶揄し、口さがなく言うものもいるが、また、うまくいってない苦労を心配して、声をかけるものもいる。世話好きのおばさんやおじさん、ちょっと年長の先輩などは、頼まれてもいないのに、こうしたら、ああしたら、だれだれを紹介するとか、かまわず、夜逃げしちまえとか…「おっせかい」という世話もやく。
 
心配して声をかけたり、おせっかいができるのは、やはり、家と家、人と人を遮る壁が薄かったからだ。
 
同じように貧しく、同じように豊かでもなく、しかし、距離を近くしてしか生活できない戦後十年前後の時代。遮る壁が薄いがゆえの悪意や妬みも、それらが生む噂話をどこかで当然と承知していたし、そのやり過ごし方も心得ていた。
 
そして、人というものは、心配もすれば、妬みもする、いろいろな気持ちを持ち、いろいろに行動する生き物なのだということをみながよく知っていた。つまり、人々が人というものをよくわかっていたのだ。
 
そうしたかつて日本を支え、高度成長や科学技術の発展を支えた人のつながりを自分の身近なところから、少しずつ回復できないかと、実はこの数年意図して取り組んできた。かつてのように、それが村八分という排除と差別や縛りを生むような悪しき共同体でなく、緩く、自由な共同体の回復…。
 
大仰なことではない。自分が生活する場で知り合った人たちと、地域的な結びつき、地域を越えた人間関係を共に過ごせる場、郵便局や医院、役場のようなものが擬似的につくり上げれらないかということだ。いわば、共同体の新しい姿。
 
それが青山村構想。うまくいったものもあるし、うまくいかないものもある。うまくいっていたが、うまくいかなくなったものもある。だが、それでいい。強引はよくない。自然な人の結びつきが新しい共同体の復活にはかかせないからだ。
 
自分が旗艦となれば、青山村は、単に青山に留まることはない。自分が出会い、知り合った人々がすべて青山村共同体となる。
 
ハンナの店で紹介されたTさん。その就活のお手伝いを微力ながらさせていただいているが、とても感謝されている。オレにだけでなく、ハンナのばばあにも。
 
たぶん、Tさん、仕事関係や親族関係以外で、見ず知らずの人間にこんなふうに世話を焼いてもらったことがない。きっと、それが嬉しいのだ。
 
社会貢献できる小さな朗読会をやいりたいと相談をくれた、ナレーターのTさん。青山赤坂界隈に住む仲間がやっている「明るい社会づくり運動」の夏休み家族向け「自然観察会」で朗読をやってくださることになった。喜んで…。自分で役に立つことならといってくださり、また、その思いを見ず知らずのオレの仲間が受け止めた。
 
8月8日には、新橋駅の機関車の前で、恒例の献血もある。これには舎弟のSも協力させたいし、芝公園での自然観察会の手伝いもさせたい。
 
人のために何かをやる。何かをしてもらった人間がまた、だれかのために何かをやる。できることでいい。それぞれの得意なことでいい。それで人と知り合い、つながりを深めれば、そこに、損得を越えた新しい共同体が生まれる。