秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

書くということ

引越しが迫り、次第に部屋の中が足場のない状態になっている。

移転の手伝いに、午前中だけだが、ブッティスト仲間の近所のMさん。稽古前の3時まで来てくれるという俳優の長部、11時から手伝えるという撮影会社のO、それに、先輩Sの人質になった、音効のKと舎弟のS。

照明のSは、Vシネで忙しいと聴いていたから、声をかけなかった。いつも暇だといっている助監のYは、珍しく、オレの仕事が始まる2月中旬まで詰まっている。カメラマンの北條は、参加予定だったが、思った通り、急に仕事が入った。

みんなが揃えば、仮新年会でもと思ったが、最後までいるのは、音効のKと舎弟のSに、撮影会社のO。やれるのは、引越しのお疲れさん会といったところ。

結局、入れ替わり、立ち代わりになるが、せーいの、でやれば、そうそう時間はかからないのではないかと読んでいる。一番至難なのは、コピー機とでかい衣裳箪笥とベット。コピー機は、ネーリストのKにも、もったいないといわれ、結局、メガに頼まず、費用節約のため、自分たちで運ぶことにした。

箪笥とベッドは、元家具屋のMさんが、家具用の台車と普通の台車を貸してくれることになり、バラシと組み立ても得意だからとやってくれることになった。

手間なものもいくつかあるが、台車も一つ購入したし、移動は距離も近いところもあり、そう負担ではない気がする。イガが養生を手配してくれたから、ほとんどのものが台車移動できる。

おそらく、手間なのは、前日の養生張りをひとりでやるのと、粗大ゴミ出し。それに、全部搬入した後
だ。

配置は、実寸をとり、おおまか決めてあるが、自主作品など、これまで段ボールに入れたままだった物をどう収納するか。なんといっても、これまでの半分以下のスペース。いまのところ、ソファの置き場がない。配置をいくつか検討しないと、収まらない気がする…。

なんてことを考えながら、手持ちで運べるインテリア絵画や靴、精密機器類などを一人で運びこんでいる。段ボール類は、大物を運ぶ邪魔になるから、一番後。そんなことをやりながら、足場の少なくなった部屋で、自主作品の原稿に向かう。

いまから25年ほど前、おふくろがくも膜下出血で倒れたとき、オレは丁度、東京藝術大学の100周年記念の映像の総監督をやっていて、睡眠時間もまともにとれない中、大作の原稿に立ち向かっていた。

オヤジは帰ってこなくていいと気丈に振舞っていたが、すぐに姉が涙ながら電話してきて、相当に危ないとわかり、原稿をかかえて飛行機に飛び乗ったのを覚えている。

当時は、原稿用紙に自筆で原稿を書いていたから、飛行機の中でも原稿用紙を広げていた。親が生死の境にいるというのに、オレは何をしているのだろう…。雲海を見て、そう思った。

幸い、そのときは一命をとりとめたが、その後、また二度も頭を開き、血種ができるいる箇所を手術した。その後の二度の手術には立ち合えなかった。台本が通り、今度は文書資料ではなく、膨大な藝大やNHKの映像資料から使用できる映像を、新撮と別にピックアップする作業が待っていたからだ。

おかしいと思った。会社にいながら、バックアップできる人間がいない…。

確かに、藝大の仕事は、クラッシック日本の伝統音楽、絵画や造形に知識がないとできないものだったから、当時の会社では、ほかにフォローできる人間はいなかったが、オレの大変さへのあまりの無理解に、そのとき、会社を止めようと思った。

それでいながら、結局、おふくろが亡くなるときもオレはいてやれなかったし、何か家族や親に事あるときに一緒にいてやることはできていない。こうして引越しをやりながら、自主とは別の書きたい本を早く落ち着いて書きたいと思っている。

タバコをやめれらないように、オレは、やはり書くことをやめられない。