秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

表現者

大きく取り上げられることのないニュースがある。

テレビ報道には、番組の時間という制限があり、新聞には紙面という制限がある。一見、あまねく世間の情報をテレビや新聞、あるいはインターネットで得ているように思えて、実は、人々の眼に触れる情報というのは、実に狭い窓から世間をのぞいているようなもので、かつ、恣意性に満ちている。

テレビ報道であれば、制作プロデューサーの裁量があり、新聞でも、インターネットでも、紙面やWEBの構成を決める構成担当がいがいるし、どの記事を掲載するかを決める編集長がいる。

つまり、情報というのは、一度、顔の見えない誰かによって、編集され、人々に届けられる宿命にある。だから、編集する側の意図や意志、思いや願いといったものが付加されてしまい、真実を知るということは、厳密な意味で人々にはできない。

かつて、中国の革命家、毛沢東が、「すべてを疑え」と青年たちに呼びかけたのは、過去の権威や権力が絶対なものであるということを否定しなくては、新しい時代を拓くことはできないという意味だが、同時に、それは、自分たちの周りにある、情報の真実を見抜く力を養えということでもあった。

三行の新聞記事から、あるいは、インターネットのサマリーから、世の中の真実を見るという目を養うには訓練がいる。知識もいる。俗にメディア・リテラシシーといわれるもの。

自分の意見を持つ、考えを持つということに、メディア・リテラシーは大きな効果がある。一つの情報を提供された側の視点だけで読み取るのではなく、「本当にそうなのか?」と疑問を持ち、多様な意見、視点を調べ学習し、そこにある、齟齬と誤謬を自ら見つけ出すことで、自分の考えが鍛えられ、一つの結論を導き出すことができるようになるからだ。

本当にそうなのか?と疑っていた、自分の無知さを知ることあるだろう。多様な意見を知るうちに、やはり、そこに恣意性があり、真実は、こうではないのかという発見と出会う場合もあるだろう。それが、人の知識と情報の幅を広げ、かつ、自分自身の考え方に対する自信を与えていく。

だが、その動機となるのは、自分自身の興味や関心の高さだ。意図して学ぼう、知ろうとする気持ちがなくては、新しい発見にも気づきにも出会うことはない。

オレたちのように、何かがしか、表現を通して、物事を伝えるという立場にいる人間は、そうした情報のあり方、扱い方に謙虚でなくてはならない、とオレは思う。

謙虚であるということは、自分自身の知識や情報を練磨しておかなくてはいけないということだ。オレがやっている社会教育や人権といった啓発作品はもちろんのこと、エンターテナーとして提供される作品においてもそれは同じだと思う。

人を描くということをやる以上、人が見える生き方や考え方を身に付ける努力は怠ってはいけないし、人を知るためには、どうしてもいまの世の中のあり方や人々の生き方、考え方を謙虚に学ぶ姿勢がいる。そして、それを表現できるスキルを磨く必要がある。

その過程で、迷い、悩み、苦しみ、不安や焦燥を生きることが、表現者を強くする、とオレは確信している。その自分のわがままが、時として周囲の人間を悲しませたり、不義理をすることがあったとしても。

孤独は辛い。明かりが見えないように思える不安と焦燥は、ときとして、人を投げやりにしたり、やけにしたりもする。だが、それでも、その闇を突き抜けようとするところにしか、表現者としての道もなく、責任も果たせないのだ。

お手軽に、器用に得られる人の幸せがないように、どのような形であるにせよ、表現者として自立していくには、その道を通るしかない。