秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

おふくろの手紙

深夜、キャリングケースの書類を整理していたら、おふくろからの手紙が出てきた。

基本、ひとつ仕事が終わると、保管しておく資料、破棄していい資料を仕分けし、保管のために、ケースや棚の整理をやるのがオレの癖。だから、おふくろが元気なとき、乃木坂に来てから送ってくれた数本の手紙はとってあるのはわかっていた。

だが、おふくろが亡くなってから、それをじっくり読み返すということはしていなかった。

電話口でも、手紙でも、芝居をやるようになってから、おふくろがいうことは、いつも決まっていた。仕事は大変だろうが、借金をしないように。身体を気をつけるように。タバコを止めるように。そして、念じることしかできないけど、許してね…で終わる。いつもそうだった。

亡くなってすぐは、それを読むと胸がつまりそうで、読めなかった。しばらく時間が経って、そういえば、手紙があったと、1通だけ目を通した。おふくろは、いつもオレのことを心配してくれていたなぁと、しみじみ思った。そして、それに応える生き方や生活をしてこなかった自分を申し訳ないと改めて思った。

昨夜、整理していて、おふくろが亡くなって初めて、数通の手紙を全部読んだ。移転の作業の中だったから、文面ににじみ出ているおふくろの思いはひとしおだ。まるで生きているときのように、おふくろの声が聞こえ、涙もろいおふくろに、自分の放蕩さ加減を諌められているような気になる。

うざいと思う気持ちと、おふくろにこんなに心配をかけている自分を情けないという思い、どんな思いで筆をとっていたのだろうという申し訳なさの気持ちが、辛く、深く、入り交ってよみがえる…。

いま、政界は政治資金の不実記載の問題や贈収賄の疑いで揺れている。人々は批判の対象にしかしないが、そこには、親の思いという隠れたキーワードがある。これまでの政治家の汚職事件とは、そこが決定的に違う。

ブリジストンの令嬢として何不自由なく育った、鳩山の母君が、相続税贈与税の詳しいことを知るよしもない。息子のためにと与えた金額が並はずれていることを、貧乏人はやっかみのように揶揄する。しかし、戦前からのエリート家族の母親とはそういうものだ。

そもそも自民党の前首相も、炭鉱労働者や強制連行の朝鮮、中国人のいのちと引き換えに資産をなし、その先祖の資産の上にのっかって首相にまで上り詰めた。それに比べたら、鳩山家は、エリート中のエリートで、文化的素養や教養、家柄は雲泥の差。それを、自公は、まるで、かつての共産党社会党のように、金持ちであることそのものが悪のように批判する。

社会常識に欠けている点があることは、批判されても仕方ないかもしれない。しかし、家族のあり方やその資産、収入といった生活の中身まで他人にとやかくいう権利がどこにあるのか。ドラ息子呼ばわりされる理由は、金持ちだからといって、あっていいわけがない。

近所のおばさんたちの井戸端会議レベルの罵詈雑言が飛び交う国会って、なに? と思うのはオレだけか。それより、早く予算審議をやって、オレたち国民生活を、この窮状から救え、そう叫びたくなるのは、オレだけか。

オレは、人権の講演会などでよくいうが、金持ちだからといって悪ではないように、貧しいからといって善でもない。悪も善も貧富には関係ない。つまり、人権も貧富に関係ない。アホ左翼やリベラルの仮面をかぶった権威主義者は、すぐに弱い者が虐げられ、富めるものは搾取するという構図でしか、人や社会を見ようとしない。

もちろん、経済的な豊かさによって保証される生活はある。だからといって、それ自体を悪と考え、常に富める者のみが人権を蹂躙しているという、短絡さでは、ドロドロした差別の現実や人間の愚かさにまで手は届かない。

所詮、どこまでいっても、きれい事の人権で終り、きれい事の正義でおわる。

小沢問題にしても、莫大な金額を現金で保有していたというところから疑惑が広がっている。それを隠蔽しようとした行為は、もちろん許されてはならない。だが、これも、父親の遺産というベースがあってのことだ。詳細な内容は、これからの話だが、これも親が子を思う気持ちが引き金になっている。

そして、ここでもその膨大な資産を、貧乏人のやっかみのように、そして、正義の使者のように、法と道徳を混同した、裁断を人々がする。

こういうことを書くと、また、どどっと、リスミーのランキングが落ちるだろうが、バランスのある視点や意見が恣意的に、容易に操作される、いまの社会で、あえてバランスをとろうとする人間や意見がかき消される、この国とは、どうしたものか。

異なるものを受け入れ、利他に徹しようとする人間が、まるで出る釘のように打たれる社会は、どう考えても、現状を維持することによって、新しい時代の幕開けで失われる自己の権益や利益を守ろうとする行為にしか見えない。

問題があるなら、裁きは必要だ。しかし、人を裁くということと、いまこの国に何が必要で、何を目指さなければならないかは同一ではない。政治家がどう、政党がどうという前に、オレたち自身が、選択の少ない中で、しっかりとした選択をし、ベストではなくとも、よりベターな道を歩むことでしか、国も社会も変らない。

おふくろは、そんなオレの考え方や性格を、幼い頃から心配していた。

世の中は、あんたのような人には生きにくい。おふくろは、ボランティや宗教活動の中で、いろいろな社会の現実を見て、そう思っていた。何かに抗うように生きる、生き方はかしこくないし、家族や周囲を苦しめる…。

こうと思うと止まらない、オレのあやうい生き方を、おふくろは、きっとまだ心配している。