秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

同窓会

元女優、グラビアアイドルのKと早めの夕食。

このところすっかり相談役状態。芝居をやめ、新しい目標に向かって前向きに生きようとしながら、以前のような緊張感がなく、周囲に自分を評価される場がなくなったことで、心に空洞ができている。

その虚しさが、心の隙間を埋め合わせたいばかりに、あれこれ面倒の種を蒔き、結果、それが自分の虚しさを一層虚しくさせている。

人は、何かに心が囚われ、苦しみの渦中にいると、人の苦言やアドバイスに素直に耳を傾けるということがなかなかできない。そうしたときは、あれこれ忠告をするよりも、とりあえずは、その人の思いに耳を傾けることが寛容。

しかし、そうはわかっていても、つい相手を心配し、思うばかりに、それを忘れてしまうときがある。

この間、女優の内田に、「カントクは否定しかしない…」と指摘され、はっとなって、久々、深く反省したように、相手を思ってという気持ちは、行過ぎると相手を傷つけることにもなる。

若い頃からあれこれ失敗し、いい歳になっても、まだ失敗続きの自分を振り返ると、若い奴にそうなって欲しくないというのは、身勝手な言い分かもしれないが、しなくていい過ちや遠回りは、避けられるものならば避けて欲しいと、つい思ってしまう。

だが、人の心は、自分が納得し、自覚しないと本当のところ変らない。傷つきたくないがゆえの思い込み、頑な心…。それは、どうしようもなくなり、こういう自分はいやだと目覚めないとわからないのが人というものだ。

そのときに、傷ついて、苦しんでしまった気持ちを、責めることなく、ただ、しっかり抱き締めてやることができれば、それに越したことはない。

人は、いつくになっても、子どものように、誰かに甘えたり、抱き締められたいと思うことがある。それだけで、心が癒されるときがある。あれこれ苦言をいうよりも、その方が、こちらの心配や思い、願いが伝わることも多い、とオレは思う。

人は、いつもがんばってばかりはいられないのだ。その苦しみもわかってやれる自分にならなくてはと、Kの話を聴きながら、再び思う。

15歳の高校一年のときから、自分のイメージを実現することだけを孤独に追い求めてきたオレの、それは、課題かもしれない。自分が孤独だった分だけ、人に本当にやさしくなれないオレがいるのだろう。

なんてことを頭の隅で考えながら、Kと食事の後、お茶をしていたら、高校の女子同級生仲間が、東京近郊在住者の同窓会の帰り、女性ばかりで飲んで、笋靴討た。オレが参加しないというのを伝えていたのだが、同じ学年だけで集まるだけなら飲もうといっていたのを覚えてくれていた。

Kを地下鉄まで送るついでに、奴らと合流。もう酒は飲めないという奴らと事務所で語り合う。

不思議な脈絡だった。Kとそう歳の変らない頃、オレたちは出会い、オレは、その仲間から遠くに自分の生活や世界を求めて、福岡を旅立った。

それが、38年ほども経って、オレが、やっとみつけた居場所に同級生がいる。こんなふうに、出会い、語り合うとは当時思ってもいない。数年前、同窓会で顔を合わせてはいるが、高校を卒業した頃が互いが若かった頃の最後の姿だ。それを象徴するように、その年齢のKとすれ違う。

ふと思う。オレがKを含め、年下の若い奴らの悩みや思いに耳を傾けていられるのは、あの頃、同じように、互いの悩みや思いを語り合った経験があるからではないのか。

オレは、もしかしたら、あの時間をまだ生きようとしているのかもしれない。まるで同窓会に参加しているみたいに…。