秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

初見の大切さ

以前、Redでのオレの出版記念をかねたミニミニシンポに出演したもらった、長い付き合いの斎藤環が、『文学の精神分析』(河出書房新社)など、このところ、立て続けに本を上梓している。

これまで、依頼されて書いてきた書評をまとめたものだが、やはり、斎藤環はすごい。本の内容については、読後、オレのHPでも紹介したいと思う。

また、丁度同じ時期くらいに、これも長い付き合いになる宮台真司が『14歳からの社会学』(世界文化社)『日本の難点』(幻冬舎)と、いい本を立て続けに出している。

『14歳…』の方は、丁度企画を進めていた頃、札幌の講演会の行きかえりの飛行機の中で、その概要を小耳にしていた。オレがこういう本が必要なのではと、そのとき語ったのは、これもオレが『思春期の心をつかむ会話術』(学陽書房)のような、わかりやすい本をその当時からイメージしていたからだ。

斎藤環の文章は、玄人向けで、難関な点も多いが、評論文としては、今日、最高峰のレベルにあるのではないかと思う。というか、オレの生理に合っている。分野は違うが、オレが東宝時代に世話になった、演劇評論家渡辺保の読む者の意表を付く、鮮やかな切り口、文体とどこか似た空気感があるのだ。

宮台真司とは、『14歳…』の話になったとき、程度の問題はあるが、これから社会へメッセージを届けるときに、難解さをどう克服するかを考えなければならないと、自戒を込めて話し合ったことがある。それでも宮台の講演や文章は難解な点が多い。

作家の文体、スタイルはコンテンツそのものである、といったのは、わが師、サミュエル・ベケット。学生時代にベケットを研究していて、その言葉に突き当たり、いまでも、オレはそう確信している。
Form is contents, Contents is form.

だから、斎藤環にせよ、宮台真司にせよ、そのスタイルが大きく変ることはないのだ。作家の内実が文体を決定し、作家の内実が読者や観客を決定する。それは、ゆるぎない事実で、どのような本でも、それを許容する人間は、作家の内実が決定した、ある人々にしか読まれること、視聴されることはない。万人に許容される作品など、実は、ないのだ。しかし、意図して難解さを避けようと努力することは必要だ。程度の差はあるにせよ。

もう15年近く前になる。宮台真司斎藤環と出会い、分野が違うがこの二人のキレに共感した。そして、二人を引き合わせた。その頃から、この二人は、分野は違えど、より広い世界で仕事をするようになるだろうと予感していた。

同じ頃に、文化人類学者の上田紀行、学術博士の大日向雅美などとも出会い、新しい思想と思考を持った識者と仕事をすることが楽しくてしょうがなかった。

斎藤環にも指摘されたことがあるが、オレのような人間は、日本社会の中では、出る釘は叩かれる式の人間で、常に、アホな団塊世代や官僚的な人間と闘い続けてこなくてはならなかった。それが、その時期、まさにオレが指摘してきたことやイラついていたことを、理路整然と説得力を持って語る奴らが登場してきたのだ。日本にはいい知識人はいないと思っているオレが、こいつらにはがんばってもらいたいと思い入れのできる数少ない識者たちとの出会いだった。

初見からそう感じさせてくれる人間と出会えることほど、楽しいことはない。以来、あれこれ無理な頼みもしながら、同時にプライベートなことも語り合い、程好く付き合ってきたが、それぞれの仕事の範囲が広がり、立場や仕事内容が変るにつれ、なかなか一緒に仕事をすることも少なくなっているが、この間のミニミニシンポのように、斎藤環は超多忙な中、時間をつくってくれたりもする。大日向雅美には、世話になっているのにランチをご馳走してくれたりする。感謝、感謝だ。

初見で感じるものがあり、そこに思想、思考、良心、そして、弱さへの共感が生まれると、普段顔をあわせていなくても、その絆が消えることはない。

初見というのは、だから大事だ。初見を大事にできるというのは、普段から自分自身が問題意識を持ち続けていることだ。問題意識を持ち、それを解決するにはどういう道筋があるのかを、個人的なことでも、社会的なことでも、世界的なことでも、意識し続けるということだ。

オレがRedの常連仲間たちやその周辺の連中と、バカをやりながらも、奴らとの絆を大事したいと思っているのは、やはり、初見のおもしろさがあったからだ。

人をおもしろいと思える心がなくなってしまったら、人との出会いを楽しむことも、人との絆を深めることもできはしない。