秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

舞台と小説、大坊の珈琲

原稿の締め切りが迫っているが、なかなか筆が進んでいない。
 
舞台台本と長編の散文を書くのは、昔から遅い。本来の締切日からひと月ほど遅れるのはざら。劇団をやっていたときは、年3回の長期公演の舞台をつくるのに、台本を机上で書くのが遅く、ほぼ口立てで芝居をつくっていた。いまでも、酒豪編集者Rと折々、話す小説のストーリーも、たまりにたまっている(笑)。
 
舞台では、どうしても俳優の生理や感覚を同じ空間と時間の中で、じかに感じないと、その俳優をいかすセリフや所作にならない。当然ながら、舞台という生ものの世界は、机上で台本を書いている世界とはまったく別物だからだ。
 
俳優の持つ人間としての生理の実体、本質と予想した生理の違い。それを埋め合わせるものを多くの抽出の中から引き出し、裁断し、整形し、内実といわれるものに変える。これは、本書きも、俳優も持ちえない、演出家の生理。心療内科と外科医を兼ねた作業。
 
場合によって、俳優の愚かさを隠さなくてはいけないこともあるし、俳優の小賢しさを徹底的にへし折らなければならないときもある。また、方便力によって、俳優を謀ることも必要。いわゆる、人間力の勝負になる。つまり、演出という作業は、俳優やスタッフに対する、多様な術式を使った、圧倒的な教育なのだ。
 
それがないといい演出にはならない。
 
これは、シェークスピアをやろうが、ベケットをやろうが、チェーホフをやろうが同じ。どういうセリフ回しで、どういう所作が的確かは、現場しか教えてくれない。演出ノート通りにいく舞台など、現実には、ひとつもない。
 
空間に絵を書く。当然ながら、その絵に登場する人物の内的外的造形も含めて、空間に絵を書く。といことが、舞台には必要だと思っている。古典芸能の能、歌舞伎、狂言などが、いまも口立てで学び、造形するというのは、だから、すこぶる正しい。
 
だから机上でだけやっていると時間がかかる。オレは、それは、舞台というものが、小説と同じように文学性が高いためだと思っている。高いがゆえに、それからどれだけ離脱できるかに苦労しなくてはならない。
 
文学性が高いながら、台本は、文学ではないからだ。俳優やスタッフがいなければ、成立しない下書き=設計図に過ぎない。
 
ところが、これ、散文の長編なども同じことがいえる。小説は、まぎれもなくそれ自体が自立した文学として完結している。が、しかし。その世界を立体化、空間化できないと、描こうとしている世界や人物がリアリティを持って展開しない。それをどう伝えるかに言葉のみを使うが、生理に届く言葉でないと、それが伝わっていかない。
 
つまりは、空間や人物の造形が文字から飛び出して、読者の絵にならない。
 
浅田次郎という作家ばかりではないが、その手の得意な作家が、巧みな作家といわれるのは、そうした理由による。
 
ところが、オレの好きな三島由紀夫はこれとまっこうから対峙する手法で小説を成立させている。立体化や日常的リアリティを求めず、3次元の世界の構築ではなく、あくまで、平板な絵として、2次元の世界に、あえて踏みとどまる。
 
いわば、歌舞伎ではなく、浄瑠璃文楽の世界で、人の情念や隠微さ、小賢しさを描く。作家の目が天空にある。まるで、自分はその傍観者のように…。つまりは、芝居の作り手に近い。
 
それには理由がいくつかあるが、一番大きいのは、おおざっぱにいえば、否定しながら憧憬していた太宰治と真逆を行こうとしたからだ。しかし、それが三島文学を世界文学にした。
 
3次元を小説という形式でやることの醍醐味とおもしろさ。それをさけて、2次元に封印しながら、同じく舞台や映画を描くように世界を構築する三島の術式。道具立ては舞台と小説、まったく違う。だが、そのいずれも舞台に似通っていると、オレは思う。
 
とはいえ、Fscebookのおもしさに時間をとられ、気分転換に表参道の大坊で久々、うまい珈琲をいただく。これでは、原稿が遅れるのは当然といえば、当然。
 
面倒くさい言い訳をしている場合ではない(笑)。