秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

不思議体験 其の四

まだ、劇団を主宰していた頃の話です。

東京郊外のある場所へ劇団の女優の二人と私の高校演劇部時代の後輩の男と四人で日帰りのピクニックに

出掛けました。五月の連休明け、月末だったと思います。

女優の一人が卒業論文でその地域の著名な祭りを取材したことがあり、そこはおいしい蕎麦屋もあってよ

いというので何の下調べもなく、行くことにしました。次の公演までまだ間があり、連れ立った女優のひ

とりがその頃付き合っていた人だったので、本当にオフ感覚でその場所を訪ねたのです。

山の頂上に鎌倉時代の武将を祭った神社があり、そこにお参りしてお弁当を食べようということになりま

した。せっかくだから、自然の景観のあるところでと辺りを散策すると、滝がありました。

「七代の滝」と表示があって、読みは「ちよのたき」と読むのだとあります。いまでいえば、天然マイナ

スイオンの場所ですから、これはいいとその滝壷の辺りで食事をし、小一時間ほどそこで遊んで帰ってき

たのです。七代の滝という名に不可思議な思いをかすかに抱きながら…。

私はそのころ、霞ヶ関に近いオフィス街で、警備員のアルバイトをしながら芝居をやっていました。複数

勤務のビルもあるのですが、その夜は欠員の都合で一人勤務のビルに入ることになりました。二十四時間

勤務で仮眠が6時間ほど。一人勤務のビルですから食事は出前をとるか、複数人員のいるビルの同じ会社

の警備員にほか弁を頼むのが通例で、そのときはほか弁を頼みました。そして、滝でとった写真が上がっ

ているのに気づき、後輩の警備員に「悪いけど、写真受け取って持って来てくれないか」と頼んだので

す。しばらくすると、後輩が写真を持ってきてくれました。「この写真に写っている女の子、だれなんで

すか~」などと軽口を叩いて、後輩は帰っていきました。

そして、写真を袋から取り出しながら、こういうのって心霊写真とか写ってることがあるんだよなとふと

心でつぶやいたのです。どうしてか、そのとき、そういう言葉が心をよぎったのです。

そして、写真を見て、愕然としました。

どうみても、数十人の霊が写っているのです。しかも、その人物もそこに自分がいることを不思議に思っ

ていないというか、その霊たちがきっとそこにいただろう時間のままの姿で写っているのです。

ぼけたり、ぶれたりもせず、堂々と写真に写っていて、その成り立ちは、鎌倉時代かその前を思わせる

人々の姿なのです。山伏の姿、落ち武者のような上半身裸の武士らしき人物、長い隠遁生活を感じさせる

豪華な着物がボロボロになったままの武家の女性らしき人物…。

背筋がぞっとしました。しかも、そのビルには残業の人が帰ったら、私一人です。

その夜、私は一睡もできず、ただ恐怖に慄いていたのです。自分がシャッターを切った写真に心霊写真が

出たのはそのときが初めての経験でした。

その日から奇怪な体験が続きました。

怖れのせいなのかもしれませんが、とにかく、怖いのです。夜、アパートにひとりでいると通りに面した

道を大勢の人が歩いている気配がある。しかも、隊列を組んで行進しているような威圧感があるのです。

こわさから、友だちを呼んで、ファミレスで食事をしようとしているとテーブルの模様が合戦絵巻に見え

るのです。アパートの部屋の絨毯には模様はないのに、そこに合戦絵巻が浮びあがってくる。

と、そこに電話がなり、一瞬どきりとして、でも、だれかと話ができるとふと安心して、受話器を取ろう

とすると、当時、黒電話だった受話器にボロボロの着物を着た女性が立っているのが写っているのです。

はっとして、振り返ると私の背後にはだれもいません。

背中に戦慄が走りました。

そんな毎日がしばらく続いたのです。

私は、宗教者である私の母に相談しました。すると母はすぐに写真とネガを送りなさいと言うのです。

さっそく、送りました。そして、母から「ここには数十人どころか数千人、数え切れない人の霊が写って

いる」というのです。私の眼にはわからなかった、子どもや赤ん坊の姿も多数あって、高貴な一族郎党が

写っていたというのです。母は、すぐにお炊き上げといって、神社仏閣でやる慰霊供養をやってくれまし

た。「霊の力がすごいから、間が入り込まないように必死でご供養させてもらったよ」と言います。

私が、「なんで俺のような信仰心の薄い人間に出たんだろ」と聞くと、「あなたが言葉では霊や見えない

力を信じているといいながら、実はまったく信じていないから、現証を示されたのよ」と母が答えまし

た。確かに、私は幼い頃から仏教への帰依心の深い家庭に育ち、お数珠は肌身離さず持ち歩く習慣があり

ました。しかし、論理性にこだわり、心情的なものをどこかうとましく思う気持ちが強かったのです。奇

怪な小説やエッセイは読みましたが、それはエンターテナーとして楽しんでいただけに過ぎないのかもし

れない。もっと深く、神秘なるもの、見えない力を理解しろと言われているのかもしれない。素直に、そ

う思いました。すると、どうしたことか、涙が溢れてきたのです。

どういう事情かはわかりません。しかし、800年以上も前、この世でなくなった方が何かを伝えたくて

私のような人間にまで自分たちの死を伝えようとしている。その思いに心をやると、いかに無念であった

か、いかにせつなく、苦しかったか。辛かったでしょうね。苦しかったでしょうねとその方々の心を一瞬

垣間見たような気持ちになり、気の毒で、せつなくて、涙が知らずに溢れてきたのです。

そして、その瞬間、ふっと、怖さがどこかへ霧散していくのがわかりました。

母たちの供養で成仏できたのかどうかはわかりません。私の気持ちが伝わったのかどうかもわかりませ

ん。しかし、明らかに何かがすっと消えていたのです。

リングという小説、映画のラストも死者の無念に共感することで長い怨念の歴史に終わりがくるという結

末がありますが、あれは、正しいと思います。死者は何かを伝えたくてそこにとどまり、あなたを待って

いるのですから…。

それから、私の見えないもの、霊的なものへのふれあい方が変わったと思います。

そのことがあってからです。私は、誘われるように、当時稽古場の近くにあった、新宿2丁目の寺に一度

もお参りしていないのに気づき、ふと、一人、その寺に足を踏み入れたことがあります。お堂をお参り

して、何気に墓地の中を歩いていると、高い慰霊塔があります。「これは何だろう」とその慰霊塔に刻ま

れた文言を読むと、昔、四谷界隈にあった娼婦館、明治以後は赤線、青線と呼ばれた場所にこの寺があ

り、そこに病気かなにかでなくなった娼婦の遺体が投げ込まれ、投げ込み寺となっていたというのです。

自殺したり、殺害されたものもいたでしょう。体を張って身売りした金を返済する女郎の生活の中で、病

気で死んだものは引き取り手もなく、ゴミ同然に捨てられるのが当時のならいでした。その慰霊塔は、名

前も出身地も年齢のわからない、男たちの遊興でボロボロになって死んでいった女たちの卒塔婆だったの

です。

私は、そのとき、次回作の芝居の台本の構想を練っていたときでした。そして、滝での心霊写真体験と、

そこから導かれるようにして参った寺で見た慰霊碑とが渾然となり、ある物語を思いついたのです。

それは、この世に生きながら、ゴミ同然のように人権を無視され、性欲を満たす道具として生きた女性

たちの話です。そして、朝鮮半島や侵略した土地の村から女性を拉致し、従軍慰安婦として軍人の慰み

ものとされた女性たちへの思いです。

その芝居は自分の力では書いていないと今でも思います。

人が生きる中でいろいろな思いを残す姿を、劇作家井上ひさしは、「思い残し切符」という名をつけて

芝居にしています。私たちの仕事は、なくなった人の思い遺しを劇場に集まる人々に力いっぱいばら撒く

語り部に過ぎないのかもしれない。

そのときから私の創作のスタンスが大きく変わったと思います。

奥多摩御嶽山へ行ったら、七代の滝で合掌してあげてください。母は調べるなといいましたが、おそら

く、鎌倉幕府、頼朝にあらぬ嫌疑をかけられ、滅ぼされた畠山一族の滅亡の場所だったかもしれません。

七代祟るという怨念を込めて、「七代の滝」。それが鎌倉にもわからぬよう、「ちよのたき」と読ませた

のでしょう。新宿の厚生年金会館の靖国通りをはさんだ寺の慰霊碑をみつけたら、遠くからでも合掌して

あげてください。