秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

見つめ直してもらいたい

統一地方選挙まじかだというのに、国民の関心が薄い。

国政選挙に関心が薄いのも困るが、地方選挙は様々な地域的課題を考え、意見表明できる生活に直結する選挙だ。国政と違い直接選挙で都道府県の長、市町村長を選択もできる。

確かに、国政における党派会派の力学が繁栄され、結局は地盤、看板、算盤で押し切られる政治の構図は変わらないかもしれない。地方選挙は国政選挙以上に地域的なしがらみや地域の有力者、権力者や団体、組織の力が大きく影響する。

それに嫌気がさすということは当然ある。

あるいは、地域に金を落としてくれる中央官庁に力があるのは時の政権だからとばかり、政権党派、会派が選択されてしまいがちだ。そこに、どうせ…という諦めも生れる。

国政においてもそうであるように、自分の一票など何の影響もないと最初から関心を示さない若年層も少なくはないだろう。

政治そのものがこれほど国民から遠ざかり、限られた支持者、支持政党だけの選挙になったのは、私が物心ついてから一切、記憶にない。その背景に、人々の志向の多様性はある。だが、簡単にそれだけで片付く問題でもない。

政治は生活に大きく影響しているにもかかわらず、人々が政治を投げ出す…先進国家のどこにもない、民主国家のどこにもないことがこの国で起きているのだ。

折り込み済みという言葉がある。

無難な選択、現状の流れを遮らない選択、いろいろな不具合や滞り、過ちがあっても、ま、現状よりよくは…画期的によくなることはないのだから、現状維持でいいじゃないか…。

そんな大人の都合、大人の事情の折り込みが広がっている。

だが、それはひるがえって考えれば、若い世代にとってはもっとも魅力のない、そして、可能性も夢も、希望も持てない、それでいて、すべてが透明な薄い膜の向こうのように透けて見える、つまらない、どうしようもない大人たちのウソにしか映らない。

そこにわずかな可能性にかけろという言葉は虚しい。そもそも、政治にそれを期待させる、新しい受け皿がないのだ。若い人たちにすれば、滞りなく、つづがなく、制度に対して、つまり、大人のウソにいい子でいる方が身を守る術だという知恵も働くだろう。

だが、いまは党派会派の縛りだけで政治ができる時代でも、その選択だけが唯一の選択でもなくなってきている。同じ党派会派でもだれに入れるのかは、限られた中でも大きな選択のひとつになる。

国政選挙とは違い、地方選挙では市民団体から生まれた政党や会派、無所属の人間でも政治に参加できる余地が国政よりは大きい。

無いように見える受け皿でも、選択の幅はまだある。それを生かせるのも、あなたの一票だ。

前にもいったが、私は誤解されているようだが、党派会派へのこだわりや好き嫌いない。その人が何を目指し、何を行動し、そして、何を生み出そうとしているのか。それだけが選択の基準だ。そして、基準の軸は、地域のため、人々に可能な限り平等で、見捨てる人や除ける人をつくらない政治を具体的に形にできる人だ。

私は、その意味で、生活の場である港区議では、横尾俊成さんを応援している。それぞれに応援する人がいていい。だが、その基準と、狭い選択でも、確かな一票を投じることはやめてもらいたくない。

しがらみや付き合いや人間関係は、とりあえず棚上げにしてもらいたい。そして、自分のためではなく、地域のために、その人が本当に必要な政治家であるかどうか、もう一度、しっかり見つめ直してもらいたい。