あのとき、あれから、これから
最初に目にしたのは、ほぼ人のいない、崩壊した町の風景だ。
夕刻の迫る海には、虹がかかっていた。その虹に白い灯台がまるで何事もなかったかのように、じっと佇んでいる…。
倒壊した団地の壁には、その家の小学校の子どもの名前と学年が書いてある、学校発表会に出したと思える絵があった。バレーボール大会出場の記念写真もあった。
その家族が無事であるのか、そうではないのか。避難できたのか…いろいろな思いが錯綜した。後日、小学校に問い合わせたが、混乱の中、確かな消息はつかめなかった。
避難所は震災当時のような混乱から収束へと向かっていたが、まだ、生々しい記憶の中、ひとりの少女が、家は流されたが、いままでがありがたかった。そして、いまこうして友だちともいられることがありがたい…
言葉を探すように、選ぶように、自分と向き合うように、ゆっくりと、時間をかけて、そう話してくれた。友人の両親や家族の消息を聞いたときだけ、言葉がかえってことなかった。
避難所の片隅には、人と離れて、ひとり背中を向けて座り続けている高齢者もいた。やたら、はしゃぐ子どもたちもいた。いままでのように、親にわがままはいえなくかった。息を切らして、カメラにいたずらする男の子は、心境を問うとそういった。
取材の中で、震災当日の夜、それから1週間以上も救援物資の届かない避難所の様子を知った。忘れられていた。伝えるべき報道がいなくなっていた。原発事故がそうさせていた。
それが私が初めて目にした、福島だ。いまや多くの友人、知人、仲間がいる、いわきの海岸線だ。地域の人のほか、誰にも知られず、だれも話題にせず、ただ危険だといわれていた福島だ。
戊辰戦争がそうであったように、自由民権運動がそうであったように、そのときも、福島は、たくさんの傷を抱えて、そこにあった。全国にその実状を正しく知られることもなく、そこにあった。
それが私が初めて目にした、福島だ。いまや多くの友人、知人、仲間がいる、いわきの海岸線だ。地域の人のほか、誰にも知られず、だれも話題にせず、ただ危険だといわれていた福島だ。
戊辰戦争がそうであったように、自由民権運動がそうであったように、そのときも、福島は、たくさんの傷を抱えて、そこにあった。全国にその実状を正しく知られることもなく、そこにあった。
今日、マスコミはいろいろに福島を取り上げるだろう。だが、知られていないのは、知らさなくてはいけないのは、原発事故の経過や復興事業、仮設での生活だけではない。
それらすべてを含めて、福島のあのとき、福島のあれから、福島のいま。そこに生きる人の姿だ。そこから、私たちが同じ国民として、人間として、何を学び、何を生かし、何を共に生み出していくかだ。
いまの福島を生んだ自分たちの国のありかた、地域というもののあり方を問い続けることだ。それは沖縄がそうであるように。
いまの福島を生んだ自分たちの国のありかた、地域というもののあり方を問い続けることだ。それは沖縄がそうであるように。