秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人の迷惑顧みず

自分の好きなことを好きなようにやってきたのだから、いつそれができなくなったとしても、あなたは後悔なんてしないでしょ?

言葉通りではないが、ほぼ、似たようなことを何かの折に、冗談半分でいわれることがある。

人の迷惑顧みず…。というのは、私のためにあるような言葉なので、それに強く反論もできないのだが、好きなことを好きにやってきたようで、じつは、本人からすれば、そうした感触はあまりないのだ。

ここまでは攻め込んでおきたかった。が、これでよしとしよう。そう思い切ることの方がじつは、多い。あるいは、ここまでは攻め込んでおかなくてはいけなかったのに、なんと力のないことかと、嘆くことが少なくない。

まだまだ人に好きにやってきたといえるほどの、好きにやれたものを自信をもって示したことがないからだと思う。

だが、それがやれなくなったとしても、自分はそれだけのものだったと思い切るしかないことは、一度、ICUに運ばれたときに痛感している。地団太踏んでみても、後悔しようにも、幕引きされてしまうときがくれば、人はだれもそれには逆らえない。

それだけのものでしかなったということだ。酸素吸入のマスクをつけて、私はそのとき、そんなことを考えていた。

もし、地団太踏んだり、ああ…と後悔するとすれば、それは、迷惑顧みずの迷惑をかけている人たちに、なにも恩返しができないことだ。そして、自分がいなくなっても続く、それからの時間や時代、そして人の姿を見ることができなことだ。

読みたい本や見たい映画、身につけておきたい教養や知識もそうかもしれない。とにかく、この世は学ぶことのおもしろさにあふれているのだから。そして、それを実践することの楽しさに満ちているのだから。

自分がえられた教養や知識は、ここまでのものでしかない。それは、なんといっても残念としかいいようがない。

だが、そう思えるようになると、次の時代を生きる子どもたちとの向かい方も違ってくる。成功ではなく、失敗を伝える。ひとつの正解ではなく、それぞれの正解を考えることを教える。正しさを押し通すことではなく、過ちを許せる大切を学ばせる…。

自分たちがつくった時代のよさではなく、自分たちがつくった人間の理想像ではなく、そんなものを当てにしないで、自分たちで時代を自由につくり、自分たちが思う人としての理想を求めさせる…。

そんなふうに、次をつくる人たちへに視線が向く。この10年、一年のうち、必ず1回、中高生の子どもたちと一緒に仕事をする。昨日も、そうだった。

ある女子生徒がいった。自分の人生なのだから、やっぱり、自分にとってのいい未来をつくりたい。戦争とかない、自分のやりたいとこがやれる明日にしたい。そうすれば、みんなにとってもいい未来になると私は思います…。

そうだ。人の迷惑顧みず、好き勝手にやりなさい。最後にみんなの…の言葉あれば、大丈夫。挫折続きのおじさんは、そう思うw