秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

判で捺す

ルールに縛られて、ルールを冒す。決まり事に羽交い絞めにされて、それで安心する。

組織や集団、公的な団体には、定款があり、コンプライアンスがあり、手続きのルールと決まり事がある。なにがしかの組織といったものは、そうしたものがないと確かに揺らぐ。

だが、法律を含め、それらは決して、人々にとって完璧を保証するものでもなければ、普遍的な正しさを証明するものでもない。一定の安心を担保しているだけのことだ。

乗っかっていれば、なんとかなる。その程度のものでしかない。だから、運用も、実施も不確かさが付きまとう。

それによって、だれかの権利が小さくされることもある。だれかの権利が大きくなることもある。そして、それによって、不利や不足を被る人も出てくる。

解釈や運用の仕方ひとつで、誤った使われ方、都合のいい使われ方をし、場合によって、人を追い詰め、傷つけ、人の権利を脅かすことだって大いにある。

いつからか、人々は清く、正しく、明るい、素直ないい子を目指すようになった。意見をいう子、主張する子、反論する子、逆らう子、弱い子は、おかしな子、ダメな子、いけない子になった。

いまあるルールに縛られることがいやだという子は、はじかれるか、ダグ付けされて、まとめて、やっかいな子たちにされる。子というのは、たとえだ。年寄りから子どまで、判で捺したようにそうされる。

だが、皮肉なことに、判で捺された側は、判で捺されない世界に憧れている。こっちじゃなくて、あっちにいたい…。その弱さが、終わっているルールや決まり事を疑わなくさせる。感情的にもさせる。

しかし、もっと哀れなことは、判で捺されていながら、そうと気づいていないことだ。だから、判で捺されているぞと鋭く指摘されると異常に感情的になる。

こんな子というのをいい加減やめたらどうだ。こんな子なんて、じつはどこにもいない。だれもが同じように、ただ、生きていて、楽しい子でいたいだけなのだ。