秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

対話

法律や制度を学ぶ。知る。理解する…。じつは、私たち日本人の多くがそれを苦手としている。

私たちは、市民自らの手で制度変更やシステム変更を果たしたことが希薄だからだ。

よく、「そんな難しいことはよくわらかない。わからないから専門家や先生に任せるしかない…」。そんな言葉を聞く。

あるいは、専門家や識者の意見や著書を見聞きするだけで、自ら資料や情報にふれ、同じ市民同士で学習を深めよう、深さ、濃さの違いはあれ、学びを通して互いの意見を交換しようという人も少ない。

ひとつの新聞やひとつのテレビ、限られた雑誌や数冊の書籍の情報だけで、政治の動きや世界の動向を理解したように勘違いする人たちも多い。

しかも、見出しやキャプション、サマリーだけで、内容を理解したように思い込む。

つまりは、リテラシー教育がない。疑問を持ち、メディアを始め、いろいろな情報を検索し、それをもとに自分なりの探求と分析を行い、ひとつの普遍的な価値や体系に辿りつく…という教育体験がほとんどないのだ。

仮に、そうした一貫性のあるリテラシー教育を受けなかったとしても、自分が日々目にする報道や情報、人伝手に聞く風聞といったものに、疑問を持つ、疑問を抱くということさえあれば、人はその疑問の元は何なのかを問い始める。

疑問が解消されれば、それは大きな知識、教養となり、その過程が他の学習を進める自信にも、能力にもなっていく。疑問が解消されず、疑問を持たせるものの実態がつかめれば、それに対して異議や意見を述べることができる。

問いのない人は学習ができない。問のない人は、自らの間違いにも気づけない。問がないゆえに、間違いの指摘に対話ではなく、自己防衛する。無学さゆえの差別的言動にも恥を知らない。そもそも差別用語そのものが何なのかを知らない。

だが、そこまで愚かな人は、じつはごくわずかな人たちだ。だが、そのどうしようもない無学で恥を知らない人にならない保障はない。ここでいう無学とは学歴や職業、社会的地位や育ちとは関係ない。

だからこそ、問いと学びを忘れてはいけない。無学だからとか、自分には難しすぎてとか、理由をつけて、逃避してはならない。もうわかっていることだからといった傲慢は言語同断だ。そう。学びを放棄するということは逃避でしかない。

そこからは互いを知るための対話が生まれない。

私たちは互いを知り、互いを尊重するために、排除や差別、蔑視や理由なき憎悪から生まれる対立や暴力でなく、対話するのだ。対話は学びなのだ。

昨日、午前中は千鳥ヶ淵戦没者墓苑での平和学習会に参加し、午後から夜まで「平和を考える」と題した、安保法制や憲法について意見交換する集いにパネラーのひとりとして参加させてもらった。

一日を通じて、感じたことは、まだまだ安保法制は広く国民にその実態が理解されておらず、政権の不確かでごましの解説や解釈、答弁がそれに一層拍車をかけている現実だった。

ただひとつ。救いは、対話の重要性をほぼすべての人たちが理解できていることだ。

平和三原則とは…という質問があった。ご存じの方は多いだろう。国民主権、平和主義、基本的人権の3つだ。私は、あえて、それを簡略すれば、対話だと答えた。

対立や暴力を前提として対話は生まれない。対話こそ、安全保障の要だからだ。
それを否定するあらゆるものを私は徹底的に論破する。それは、人類しか持ちえない力と知恵を否定することだからだ。