秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

思惑

思惑という言葉がある。

予想や予測とも違い、計画や見込予定とも違う。非常にあいまいで、期待値が高く、恣意性が強い。ときには計算、算段、打算といったものに近いときがある。

統計データや分析からではなく、こうしよう、こうあってほしい、こうなれば…といった類の頼りないものだ。

だが、思惑が芽生え、その欲望が高ければ、思惑通りに事を運びたい、いかせたいと人は考え、そして、行動する。

あの異性と付き合いたい、あの地位や立場に就きたい、あの仕事をやりたい…もっと通俗的には、金持ちになりたい、豊かになりたい、人のいい評価をえたい、などなど、人の思惑には限りがなく、思惑はすぐに欲望に転嫁する。

だが、確かな計算や理論の裏付け、周囲の合意や賛同まではいかないのが、思惑だ。思惑であるうちは、思惑は思惑で終わる。

欲望の強い人は、だから、この思惑が、そんな頼りないものではなく、確かな計算や理論の裏付けや分析があるかのように仕立てあげ、思惑を思惑ではないように装う。

自分の欲望を満たしたいからだ。好きなのはお前だけさ。好きなのはあなただけよ。
その言葉の信ぴょう性を加工する。

だが、そこには打算があるかもしれない。相手の財算が目当てかもしれないし、とりあえず、かっこいい、美しい異性だから、自分のものにしたいという願望がそうさせているかもしれない。

そこに、本当に愛があるかどうかは不確かだ。思惑が生んだ、個人の欲望からは、愛が生まれるとはとても思えない。いかに詭弁を弄しても、それは見破られる。

しかし、一方で、そんな甘い言葉を信じたいという人もいる。あるいは、煙にまかれて、それが愛なのか、そうではないのか判然としないまま、流される人もいるだろう。

政府がやっきになって合憲を主張する、安保法制。なんかだ、そんな構図に見えてしまうのは、私だけだろうか。

正面切って、憲法改正から。そうはいかなのが、思惑。だが、国民の権利を守る憲法。思惑で予想もできなかった事態に慌てふためくより、思惑ではなく、原理原則で、堂々とやってもらいたい。