秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

簡潔な男のドラマ

ドラマの基本は、簡潔な構成。

サイコロジカルな作品やサスペンスなど、絵解き物、あるいは迷路へ視聴者や観客を迷い込ませる作品でも、構成や展開での技はあっても、その基本に簡潔さがないといい作品にはならない。

簡潔さは、観る人々に書きこむことのできる心象や言葉を生み出させる余白をつくるからだ。人々に忘れていた記憶や思い出、体験を直接的にせよ、間接的にせよ、甦らせ、それが物語を自ら埋めていかせる。つまり、ドラマに引き込む。

単発物のいいテレビドラマ、舞台にはそれがある。時間の制約がそれを可能にしている。1時間、あるいは2時間弱のドラマでは、描ける世界にそぎ落としがいるからだ。それが自ずと簡潔さへ導き、余白をつくらせる。

ここは視聴者や観客にゆだねよう。それが計算ではなく、生まれてくるとき、ドラマは、作者のものから、見えないだれかのものになっていく。書き手にその触覚や手ざわりが生まれたとき、この作品は、届く…という予感が生まれる。

憲法記念日の前日、5月2日は、忌野清志郎の命日でもあった。

それを意図して、オンエアされた昨夜のNHKドラマ「忌野清志郎 トランジスタ・ラジオ」。清志郎の出身高校を舞台にした作品。大きく羽ばたいていく、清志郎に屈折した憧れを持つ2歳下の男子高校生、青春グラフィティ…。

清志郎の歌にも登場する、実在した既成の枠にとられない美術教師との出会い、異性との出会い、親や世の中へのいら立ち…。それを同時代に追体験した、疑似清志郎、2歳下の男子高校生と、彼を偽物と知りながら、自分も名門女子高の女生徒といつわった女子高生の透明感ある恋を描いている。

自分は何物にもなっていない。何物にもなれないかもしれない。だれもが感じるその焦燥感は、じつは、縛られた既成の価値に自分自身が縛られているからだ。何物かになることが重要なのではなく、いま、そして、その先に、自分がありたい自分であろうとすること…そこにしか、何物かになれる自分はいない。

その単純で、簡潔なことを描いている。そして、その単純で、簡潔なことには、大きな勇気がいることも。

原発に反対し、憲法9条を誇りとし、差別や暴力を嫌い、自由であるために、何物にもなれないかもしれないミュージシャンとして最後まで歌い続けようとした。声帯除去をせず、歌い切る道を選んだ。

自由を叫びつづけなれば、何物にもなれない。そう思春期から実感していた簡潔な男のドラマだ。