秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

社会の広さ

組織や集団、人の輪に参加する、つくる上でも、そのための常識や規範をかつては、一から教える必要はなかった。

それがいまでは、人が集合する場におけるふるまい、果たすべき役割、どう人の輪の中で、身を処すかを社会に出てから訓練しなくてはいけない。企業が新人研修で、業務教育とは別に、集団での人のあり方について教育するのが当たり前になっている。

いうまでもないが、家庭、学校、地域の教育力が落ちているからだ。落ちているのは人の教育力の低下もあるが、同時に、人のつながりの希薄さ、人の流動性と無縁ではない。

つまり、社会全体から教育力が奪われている。だが、正確には、人が社会を意識しなくなってきているのだ。

社会というのは、自分のエリア、生活の範囲だけをいうのではなく、よく知らない人、言葉も交わしたことのない人、あるいは、まだ一度も面識もなければ、出会ったこともない人を含めた全体が社会なのだ…ということに気づけない。

自分が見聞きした狭い世界、家庭だけ、学校だけ、職場だけ、生活する地域だけ。しかも、そこで出会う限られた人だけの世界。それを社会だと思い続ける。

もちろん、中学生、高校生になり、社会に出る人もいる。あるいは専門学校、大学、それ以上の勉強をする人もいる。そして、社会にも出る。

だが、それもそこで出会って追加されたもの、つまり、自分と直接なにがしかの関係性があったものだけを社会とする。

それは社会とはいわない。だが、それぞれの人々がそれを社会のすべてだと思う。

ひとつには仕事や生活に追われているからだ。ひとつには、仕事や生活の忙しさにかまけていた方が楽だからだ。

社会の範囲を広くすると、余計なことが増える。それにかかわれば、面倒な時間が割り込む。それだけでなく、仕事や生活のことにまでイチャモンを付けられ兼ねない…。

そんなことをやっているうちに、人々は社会から遠のき、自分の都合のいい、楽な社会だけとかかわりを持つようになる。

だが、やるべきは、逆だ。自分の狭い社会の中にも矛盾や問題、広い社会のことを考えなくては解決できない課題がある。やるべきは、都合のいい、楽な社会で安住することではなく、そこから広い社会を意識する努力だ。学習だ。

いま自分が楽をしている狭いところにいたら、それが見えない。目隠しすることも、顔をそむけることもできる。それは、言い換えれば、都合のいい、楽できる自分だけを見ているということだ。

それでは、当然、そこでの教育力は落ちる。そこに生きる人々が学習していなくて、地域に、地域の次世代に何を教えられるというのか。狭い社会の居心地よさだけ覚えた子どもは、当然、広い社会にある面倒に向き合うことはできない。

統一地方選、後半まで、あと数日。あたなの社会はどれくらいの広さだろう。