秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

死への想像力

ある日、ある時、突然にいのちを断たれる。突然死、事故死、事件死、災害死…。それは、だれにでもありえることだ。

だが、頭では、そうだろうな…そういうこともあるかもな…などと想像はできても、それが現実的な実感として感じることは、身近にその危機を体験した方や自身、そうした危機に直面した方以外、ほとんどないだろう。

あるいは、降って沸いたような、なにかの重篤な病気で普段の生活が続けられず、日常に復帰しようとしながら、無念なうちに死を迎えなくてはいけない方たちもいる。

若ければ、なおのことだが、ある程度年齢がいっていても、それぞれにやり残したこと、気がかりなこと、果たせてないこと、悔やむことはある。

死への想像力。

いま私たちの生活の場からそれが失われている。近所のおばあさんやおじいさんがある日いなくなる。あるいは、ご無沙汰してたふるさとの親戚縁者のだれかがある日いなくなる…

ある日いなくなるのは、自宅で息を引き取る人がほとんどいなくなったからだ。死へいたる経緯と経過を人々が目にすることがほぼなくなった。

そこには、死を遠くへ、日常とは隔絶したものにしようとする意志がある。もちろん、最期まで、医療の手当てが受けられる条件を与えたいという家族や近親者の思いもあるだろう。延命を含め、それが最善の選択だ。また、忙しい日常を生きている他者に死へ向かう過程にかかわらせては申し訳ないという遠慮もあるだろう。

確かに、そう考えても不思議はない。

だが、それは同時に、自宅で最期を看取るのと違い、死を生活の場から違う病院の奥へと隔絶する結果になった。

誕生がそうであるように、死は教育でもあるのだ。

だが、誕生と違い、人生の終焉である死は、遺体となったときから、忌中という言葉が示すように、忌むべきものとして暗い闇の信号に変わる。

死は、日常の生活、生産性とはまったく相容れない。相容れないどころか、死とその後は生きている人々にコストを求める。生産性や日常の維持とは遠いところで…。

めまぐるしく過ぎる日常のレールとその上を走る列車のスピード。死はそこからどんどん追いやられて、人々の眼にふれないものにされていった。

死にゆく人の姿をみつめながら、その人の生と自分の生を考えることも、そこにあっただろう思いや願いを聞き取ることも、そして、死を抱えた家族の痛みを共に過ごす時間がなくなった。

死は、人に多くを教える。発見も与える。それは、私の、あなたの、いまある生を教えることなのだ。

死への想像力が鈍感になり、失われる。それは、いのちを守る、育てることの意味も失わせる。

失っていなければ、直情的な対抗意識や力では力で報復を…といった言葉はでない。死は、相手にあるだけではない。私にも、あなたにもある。そして、そこには、すべてに、思いと願い、思い残し切符がある。