秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日常の復権

難しい話や面倒な議論は避けたい…。この問題先送り、現状や現実から顔をそむけ、自分の生活の枠内にとどまろうとする傾向は、、多くの日本人に共通のものだ。

だが、いくら考えなくてはいけない問題や現実から顔をそむけても、あるいは、事なかれ主義で、現状容認型でいこうとしても、いや、そうすればするほど、卑近な生活のあちこちに、じつは、それらの姿は現前として存在している。

日常に出現する、卑近なそれら課題ときちんと向き合い、生きること。それが、私のいう「日常の復権」だ。

復権というのは、卑近なそれら課題ときちんと向き合わないことが、いま、私たちの歪な日常をつくっているからだ。

いや、そんなことはない。自分は、日々の仕事の中でいろいろな課題と向き合っている。家族の問題に向き合っている。子どもの学校や隣近所、地域の課題に向き合っている…

そう言い切れる人は、果たして、どのくらいいるのだろう。言い切れたとして、その向き合い方は、本当に、課題先送りでなく、また、自分への言い訳や都合のいい屁理屈でなく、仕事や家族、地域の課題に真摯に向かい合っていえるといえる質のものだろうか、次世代の日常のためのものだと言い切れる質のものだろうか。

きっと、自分の先送りや棚上げを隠すようにして、形ばかり、あるいは、自分の都合の押し付けでしか、向き合っていない人が多いのではないかと思う。

私たちの生活は、身近にある問題を先送りできる、別の課題や誘惑に溢れている。向き合わない自分を曖昧にでき、ごまかし、別のなにかにすり替えることのできる。

そして、それは卑近な日常以上に重みのある日常だと人々は思っている。

しかし、重みのある日常と人々が思っている課題や問題は、じつは、卑近な日常に出現している課題や問題を先送りしたり、据え置きしたり、曖昧にすることから生まれているのだ。

難しい問題や面倒な議論を避けて、卑近な日常が復権できないように、卑近な日常以上の重みがあると考えられる課題や問題と格闘することはできない。よりよいものにすることはできない。

沖縄にせよ、憲法にせよ、原発にせよ、格差にせよ…その問題と向き合わないことは、自分たちの卑近な日常を見ていないことと同じことなのだ。

賛成反対を問うているのではない。吟味し、思考し、議論することを放棄してはいけないといっている。つまり、学習を深める努力を惜しんではいけないといことだ。

そこにしか、次への知恵とあるべき理想の姿は浮上しない。

関心が失われているのではない、関心を持つことを放棄しているのだ。それは、自らの日常を放棄することにつながる。