秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

公と私

なにかをこの世に残したい。自分が生きた足跡を示したい。それらによって社会的な評価をえたい。

才能のある人たち、あるいは出会いに恵まれた人たちは、それが可能かもしれない。

だが、多くの人たちにとって、広く、それができるわけではない。そこで、人は、なんとか「自分」を知らしめるための細工をする。

いまの時代、SNSなどネット配信が容易になったことで、だれもがなにかの主役であることをアピールできたり、オレは、私は、ここにいるぞと発信できるようになった。

現実に、その結果、YOUTUBEの動画からアイドルやタレントが登場でき、SNSやネットを使って収益を上げることも可能になった。

「不特定多数」というものが、これまで限られた媒体に載ることでしか手に届かないものだったのが、そうではなくなったのだ。

それが人々のなにかを世に残したい、自分が生きた足跡を示したい、それらによって社会的評価をえたいという願望を質や内容にかかわず、満たせるにようになっている。

もちろん、エセ、疑似満足だ。だが、それでも発信できることに一定の充足感がえられる。それどころか、エセ、疑似と疑われなければ、評価を集めることができる。

だが、それは人々に、現実の足掛かりの感触も鈍感にさせる。自分の実体や生活姿勢とは異なる虚偽や虚飾、出まかせ、あるいは背伸びであっても、現実に通用するという錯覚を持たせるのだ。

数年前からUSTやYOUTUBEを使った、いじめや暴力動画、違法行為動画が氾濫するようになっている。最近では、交際中のカップルが自分たちのキスシーンやデート風景を配信することまで起きている。

国家公務員である海保のアホが中国船の衝突動画をアップして時の人になった例も最近のことだ。

いずれも差異はない。社会的な活動、社会的な意義と見栄を切ろうと、おもしろ半分でやったと言い訳しようと、いずれも公(おおやけ)と私の区別がつかない子ども、大人な急増しているということだ。

沖縄県知事との面会を理由もなく拒絶し、原発事故の収拾の先行きさえ見えてないのに、原発再稼働と原発の輸出を目指すこの国の政権中枢ですら、公と私の区別がついていない。

人々にとって議論がなぜ必要なのか。

それは、公と私の区別、区分をやるためなのだ。それは本当に、公のためのものなのか。私事、私権、私見ではないのか。そのせめぎ合いをするためだ。それによって、異なる意見の中に、公を見出すのが議論の本道でなければならない。

それすれらも拒否するというのは、最初から公と私を混同しているからに過ぎない。アリバイとしてやれば、それは一層、議論ではなく、議論に参加したという建前を示しているだけに過ぎない。

ネット動画に象徴されるように、いま、この国では、私事が氾濫し、それがあたかも公の大義、正義のように語られている。本当に公を語る人たちを私事であるかのよに議論から排除する。

だが、まともな議論もできないということは、排除する側が私事を生きているのだ。

公民権公民権意識。いまそれを最も持っているのは、本土から差別と冷遇と犠牲をしいられてきた沖縄県民だけになっているかもしれない。