秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

白い笑い声

昨夜、BSで「尾崎豊23年目の真実」をやっていた。亡くなって3年後、私も尾崎の作品を手がけたこともあり、思わず見てしまった。

後に系列会社の代表取締役になった、宝島社のKさんが、当時、まだ角川にいた見城さんやSONYミュージックから尾崎が再出発でリリースしたBirthの担当音楽プロデューサーだった須藤さんを説得して、制作に漕ぎつけてくれた作品だ。

尾崎豊eyes -白紙の散乱より-』。
タイトルを決め、仕切ったのは宝島社だが、日本コダックが当時発売したフォトCDという写真再生デッキの販売促進のために制作した。

原作は、角川から出版された『白紙の散乱』尾崎豊。構成・監督を私がやり、監修は須藤さんが引き受けてくれた。写真は、尾崎の写真権利を大半所有している田島さんが協力してくれた。須藤さんは、さすが音屋さん。西麻布のスタジオでの音入れにはすべて立ち会ってくださった。

ナレーションは当時、若手女優では飛びぬけて演技力のあった、中島ひろ子。私が直接出演交渉した。常盤貴子や中島朋子にも交渉したが、尾崎の作品というと、偉大過ぎて…と辞退された。

困った…と思っているとき、NHKで、モントリオールのテレビドラマ部門で受賞した武田泰淳原作、中島ひろ子主演の「雪国」を偶然見た。この女優しかない! すぐ決めて、事務所に電話した。ナレーションは事前にマンツーマンで指導した。

丁度、蓼科の地域コンサルもやっていたときで、茅野市で企画提案が終わり、打ち上げがあった。夜、宴席には顔を出したが、酒を断り、そこそこに中座して、ボルボ850GLTで中央高速をかっとばした。スタッフが5日間不眠不休で音づくりをしている西麻布のスタジオまで音確認に行く約束があったからだ。

すでに記者発表の日時が決まっていて、そこがタイムリミットだった。

私も仕事のブッキングで睡眠不足、朦朧としながら、高速でよく事故らなかったと思う。若かった。

尾崎の作品は、最初にいた事務所とのごたごたがあり、著作権管理が入り組んでいる。亡くなってからも、著作権者である奥さん、ソニー、それにアイトソープと権利が作品によって違い、ひとつの作品に尾崎のすべての生音源が使えない。

音源制作スタッフは、極端なアレンジで、どうしても使わなくてはいけない、I LOVE YOUの著作権をクリアしてくれた。

存命中も、そして亡くなってからも、それだけ周囲の人間や後の人間に手間暇をかける、面倒だが、稀有の才能だったということだろう。

私は、制作を担当したとき、彼のことを遅れてきた青年だったのだなと思った。校内暴力などで中学が荒れていた時代の世代。私くらいまでは、なんとか、反権威や反権力、反制度といったものへの大衆的共感がまだあった時代と、それが失われたあとの世代。

尾崎の音楽は、仲間はいたとしても、私たちのように、同時代性を同じ世代で生きられなかった青年の孤独な闘いの結実だった。あったのは、彼の音楽に共感する社会的力を持った一部の大人たちと、彼をカリスマに祭り上げる熱狂的な、尾崎を食べつくす身勝手なファンだけだった。孤独だったろ…私は尾崎を調べていて、すぐにそう感じた。

最初は祭りあげられ、苦しむと覚せい剤を教えられ、徹底的に食い物にされた。その傷が、再出発後、異常なほど、他者への不信と人の愛情の枯渇を植え付けた。異常を越える、徹底的な「尾崎のための」自己犠牲を周囲に求めた。それでいて、氷結のようにさびしがり屋だ。自ら招く孤独が、そこに薬物を介入させた。

これではいけない…と思いながら、彼を取り巻く人間には、最後にビジネスという金がまとわりつき、そこに大人戦略や戦術、常識が覆いかぶさる。だって、仕事じゃないか。生活があるじゃないか。それが届かないところ、それを越えたこところで、人とつながりたかったのだと思う。

私は作品の中で、二度、ト書きに、白い笑い声が聞こえてくる…と書いた。最初は伏線として、尾崎を襲う、裏切りの声として。そして、最後はバイクの音が遠ざかった向こうで、再び、白い声を入れた。尾崎を死に至らせたもの…それを突き付けておきたかった。

宝島の担当者やコダックの担当者、社内では、顰蹙をかったと聞いた。蛇足だよといわれた。

私は思った。「こいつら、尾崎がわかっているようなこといいながら、結局、なにもわかってねぇじゃねぇか…」。最終版、商品化されるまで、私は、白い笑い声は譲らなかった。制作にかかわった人間、須藤さんや田島さんなど尾崎と共に仕事をし人たちからは批判が出なかったからだ。

問題児だったが、美しい顔をした悪意…白い笑い声の正体を尾崎は知っていた。それは、尾崎が生きたあのときより、もっと増えている…。