秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

スケルトンと宝

かつて、社会学者の宮台氏とこんな話をしたことがある。

コンビニや自販機で売られているコミックポルノや写真。暴力シーンのあるアクションコミック。いわゆる悪書と一般にいわれるものだが、これを東京都条例で禁止にしようという動きがあった。

そもそも、悪書とは何なのか。悪書とそうではない書とはどこで線引きするのか。そうした議論はないまま、性的なシーンや暴力シーンがあるだけで、これは悪書と裁断し、青少年の目にふれないものにしなくては!と、ある意味、ヒステリックといってもいい運動が起きた。

だが、その青少年健全育成のための団体は、平均70歳とかの子育てを終えた人たちばかりだ。青少年健全育成の当時者ではない、子育てを終わってしまった地域のナントカという人たちが、子育ての問題に目くじらを立てている。

地域とのつながりは深いのだろうが、地域外のことや仕事を通じた社会とのつながり、あるいは、新しい知識の学習をしていない人たちが、かつての自分の子育てや身に着けた常識の枠の中で、孫の教育に、保護者以上の介入をする。

当時者議論を飛ばし、悪書とは何かの議論もないまま、ああ、汚らわしい! 品がない!といった情感のレベルで条例という法にかかわる。

これほどキケンで、かつ無責任なことはないという話だ。目くじらを立てることと子どもを見守り、育てることは全く違う。

風評被害などもそうだ。基準や現状の理解もなく、かつ当時者でない、地域外の人たちが、ナントカの会とかいった人たちが、現場の人間でもないのに、そうした悪評を流す。

昨日は3.11のイベントがあちこちで開催された。だが、被災地の実状はこうだ。苦情はこうだ。原発事故のその後はこうだといったアピールが、当時者でない人の中でも行われている。

もちろん、当時者しか、それを語ってはいけないといっているのではない。だが、当時者でさえ、個々のとらえ方、実状認識は違う。被災の状況も環境も違う。そもそも、それまでの地域での立ち位置や地域とのかかわりが人それぞれ違う。

それなのに、なにか自分がその地域や人の代表者のように発言するというのは、いかがなものだろう。これは、外の人たちはもちろん、内の人たちでも同じだ。

自らは死に直面するほどの被害は受けてないにもかかわらず、被災地写真や悲惨な写真をやたら流して、苛酷な被災者の代表者のようなふるまいをする人は少なくない。そして、そのことで、なにかのいいポジションを保とうとする。

だが、所詮は、スケルトンでしかない。

震災から時間が経過するほどに、人々の眼も冷静になった。そして、真偽を見極める余裕も少ないが生まれている。すぐにすべての底が割れるということはないかもしれない。

だが、時間とともに、皮ははがれていく。そのときに、そのときがくることをしっかり心にとめて、被災地やそこで生きる人のことを語らなくてはいけない。私は、それだけは自らの戒めとしてこの4年、福島の人たちとかかわってきた。

だからこそ、損得や商売を持ちこんでこなかったのだ。ほかでは自らを律することのできない不埒な男だが、それだけは譲っていない。たとえ、そのために、いろいろな不利や経済的な負担があっても。

物理的に、直近にえるものはない。だが、私はそのおかげで、血はつながっていないが、心の家族とも、友とも、仲間とも出会え、なつかしいふるさとのような宝をもらっている。