秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

空想の世界

改めていうことではないが、身近に迫る危機がない限り、この国はなにひとつ自らの意志と決意で国のあり様を変えようとはしない。

しかも、身近に迫る危機への予測、予感、つまりは状況分析ではなく、具体的に、視覚的、体感として、それが出現しない限り、実感を持てない。

簡単にいえば、危機を体験しない限り、制度変更へは向えない民族であり、国家だ。

この歴史的事実は、二つの危うさをこの国にもたらし、いまももたらし続けている。

ひとつは、危機意識のない自分たちは間違っている。ゆえに、現状のようなテロが頻発する世界状勢、近隣国家の大国化、ナショナリズム化に対して、それに対処しうる国家として自ら生まれ変わらなくてはいけないという声が直情的、短絡的に沸きあがる危うさだ

そして、またひとつには、そうした国家に変貌することの現実的な危うさ、危機への予測と予感も持てないことだ。

どうだろう。一見、危機を認識し、危機に対して、これまでとは違う自発的、自動的、主体的な対処のできる国家へ変貌しようとしながら、じつは、まったくそこにある危機にも気づけていない。

いやいや。そんなことはない。この世界の、この近隣諸国の状勢を分析すれば、こういう結論しかないじゃないか。これは危機回避のため当然のことであって、そこに危機などあるはずはない。そう人はいうだろう。

だが、それは、この国の現在の危機管理能力、有事にあってどれほどの実戦的能力と意志がそこにあり、かつインテリジェンス・ネットワークがいかばかりかを忖度してない人たちの声だ。

戦争容認国家を見よう見まねで模倣して、法制や制度をいじってみたところで、いまこの国に、国家主義による危機への欧米先進国並み、あるいは中東諸国並み対応ができるほどの能力もなかえれば、メンタリティも整ってはいない。

かつて、この国が無謀な日露戦争、とはいえ、ほぼ旅順と日本海海戦のみの局地的優位を勝利しただけだが、それにからくも勝利できたとき、現在とは比べものにならない能力とメンタリティがあった。

無謀なアメリカという大国と4年もの歳月からくも戦えたのも、それがあったからだ。しかも、それを支えたのは地方の農民や村民、市井の商人たちだ。それすらも、徴兵によって事前に訓練を受けている。

時代や戦闘が変わったとはいえ、かつ日米安保条約があるとはいえ、自国の力で自国を戦争容認国家とするためには、国家、国民があまねく、盲目的に、そして隷従的に、個人を捨てて危機と対面する覚悟がなくてはできない。

あらゆる点において、この国は、危機に対して、何者にも頼らず、立ち向かえるほどの危機意識も能力もない。日米安保に依存している限り、そのようなものは育ちようも、生まれようもないのだ。それが、この国の現実でしかない。

踊っているのは、所詮、法制という書面での制度変更と空疎な現実味のない議会の議論でしかない。

戦争もまともにできない国ではみっともない。周辺有事の際に不器用では恥ずかしい…その程度の考えで国のあり様を変えたところで、根本的、本質的なメンタリティが伴っていなければ、あたら、国民の生命、財産を地獄に突き落とす。

空想の世界で、危機にあって、危機で立ち向かう。そんな威勢のいい空想だけで、国は守れはしない。危機とガチンコしたいだけでは終わらないのだ。この程度いいということはないのだ。やり始めたら、どん底までやるはめになる。それが覚悟というものだ。

自分の子ども、孫…後世に取り返しのつかない傷をつけようと、危機を実感できない人たちが、感情だけをぶつけ合い、空想の世界を夢中で楽しんでいる。

自国の限界を知り、その限界を逆手にとって、どう思われようが、自国独自の道を歩む。それこそ、どこにも支配を許さない、独立国家の歩む道。