秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

私は被害者

いじめの作品を10年以上、つくってきて、意図して作品に中に盛り込み続けていることがある。

いじめを日常化してしまう大きな要因に、加害者がだれもいないことだ。不思議に思う人も多いだろう。要はこういうことだ。

いじめに直接関与している者。それは言葉の暴力であれ、身体的な暴力であれ、あるいは、無視など精神的な暴力であれ、タカリ、ユスリであれ、性的虐待であれ、その直接の加害者の話を冷静に聴いてやると、発端は、あいつがこんなことを言った、あいつがこんなことをしたのでやった…という言葉が最初にある。

つまり、直接の加害者は自身、直接の被害は受けていないけれども、自分の物差しからして、あいつが悪いので制裁を加えたという理屈になっている。

次に、いじめには直接関与していないが、いじめの現場でそれを囃し立て、もっとやれといじめを楽しむように眺めていた観衆たちだ。彼らは、いじめを見ておもしろがり、拡散したりはしたが、決して、直接、なにかの害を自分たちは加えたわけでない…だから、加害者ではないと主張する。

もっといえば、そうやっていじめを容認する立場にいないと自分がいじめの被害者にされる危険があったので、やむえなかった。一番いけないのは、いじめた本人、直接の加害者だと、すべて加害者のせいにして、置き換える。

次に、いじめにも関与せず、かつ、いじめを楽しむ観衆にもならず、その現場や風景から遠ざかり、素通りして、自分の世界に閉じこもった傍観者たち。彼らは、なにひとつ、いじめに関与していないがゆえに、加害者と観衆が悪いのであって、かかわらなかった自分たちには何の責任もないと主張する。

つまり、どこにも加害者はおらず、逆算していくと、結局、いじめられるようになった、あいつが一番いけないのだ…という理屈が組立られていく。

この被害者、加害者、観衆、傍観者の4層が教室、もしくは部活、社内、組織、ネット、SNSでつくられると、いじめは恒常的になる。だれも加害者はおらず、すべては、いじめられた人間の性格や言動が原因だから、許されるという自明が浮上する。

いじめられるのは、協調性が持てない奴の「自己責任」であって、そいつがダメだからだ…。

私は、いじめの作品で一貫して、大人たちの世界にある奇妙な慣習から自由になれと出演した子役たちに語っている。

意に添わないもの、自分とは異なるものを排除していいという奇妙なルールに従わず、自分たちの今日、明日、もっと先の未来がみなにとって、心地いいものであるためには、被害者の顔をせず、すべてが加害者なのだという意識を持ち、自らの話し合いと語り合いの努力の中でいじめを克服しようと呼びかけている。

いうまでもない。いじめは、学校で起きているが、それは私たちの社会、国、世界の縮図でしかないからだ。

モンスターペアレント、クライアント…彼らがやるのは、自分や自分の身内は悪くない。私を怒らせている、あなたが悪いという理屈だ。世界を計る物差しは自分のそれが一番正しい。つまり、それによって他者を傷つけても、決して彼らは加害者ではない。

職場の中、親子関係の中、夫婦間の中、男女の中、地域の中、社会生活の中…いまの世界、いろいろな私たちの場面にそれはないだろうか。

自分が被害者だ。あの人があんなふうだから、こうせざるえなかった。自分の責任ではなく、相手や周囲に責任がある。つまり、どこにも加害者がいない。

イスラム国は悪だ。無念な結果にはなったが、これに対峙した政府や政権に罪はなく、すべてはテロ集団が悪い。

悪いのは悪いさ。だが、どうして、そんな悪が生まれたんだ? そこを突き詰めないと、また悪が出てくるべ。

イスラム国がどうして誕生し、どうしてこうした次第になったかより、政府がこの半年近くなにをしていかより、首相が中東でなにをいったかより、その後、矢継ぎ早に法制をいじり始めていることより…

政府を含め、すべての日本人は被害者なのだから、それを撲滅するために団結して、軍事を含め、あらゆる手段を使うべきだ。被害者なのだから…。一方、イスラム国は、そうさせたおまえたちが悪いといい続けるだろう。

ここにも、だれも加害者が現れない。テロ集団イスラム国はもとより、その被害を受けている国々も、すべてが被害者の側にいる。そうやって、いじめが恒常化するように、テロが恒常化していく。

だが、結局のところ、いろいろな事情で世界は動いている。子どもの世界、学校の教室でさえ、いろいろな事情でそうなっているのだ。

本当に、こんな悪をのさばらせたくないら、その、いろいろな事情とやらを人々に開示することだ。ひとりつぶしたところで、モグラたたきのように、自分の物差しが一番だという人、集団は増産される。

自分たちの社会、生活をふりかえっても、それはすぐにわかることだ。