真似事
周囲に目を配る。いわゆる目配り。周囲に気を配る。いわゆる気配り。
そして、人の行動やそのときの人の集合の流れを先読みして、先回りする気働き。
目配り。気配り。気働き。仕事でも、スポーツでも、生活においても、どんなことにおいても、人として身に付けておくべきことだと私は思う。
目配り、気配り、気働きは、視野を広くとらなくてはできない。自分のことや自分から半径数メートルの範囲しか見ようとしていないと、それはできない。
目配り、気配り、気働きは、視野を広くとらなくてはできない。自分のことや自分から半径数メートルの範囲しか見ようとしていないと、それはできない。
断っておくが、私がよくたとえていう、この半径数メートルというのは、ただ狭い視野といっているだけのことではない。自分を中心にして、自分の視野だけで周囲を見ることの偏狭さをいっているのだ。
もちろん。人は万能ではない。いくら人の動きの先を読み、視野を広く、俯瞰しようとしても、経験不足や学習不足から、それを見落とす、見間違える、見誤るということだってあるだろう。
だが、目配り、気配り、気働きのできる人は、その不足に気づくことができる。また、気づかせてくれる人とも出会う。つまり、一度それを意識すると学習が進むのだ。
だが、目配り、気配り、気働きのできる人は、その不足に気づくことができる。また、気づかせてくれる人とも出会う。つまり、一度それを意識すると学習が進むのだ。
普段、あまり通勤時間帯や混雑する時間に電車に乗らない私だが、年末年始、仕事の都合もあって、普段あまり乗らない路線の通勤帯の電車に乗った。
スマホを見ながら、音楽を聴きながらのながら歩行は、普段どこでも見るが、通勤時間帯でも、舗道やホームを歩きながら、スマホをやっている人がいかに多いかに驚かされた。
スマホを見ながら、音楽を聴きながらのながら歩行は、普段どこでも見るが、通勤時間帯でも、舗道やホームを歩きながら、スマホをやっている人がいかに多いかに驚かされた。
ふと、もう40年以上前、歩道を歩きながら、地下鉄でも山手線でも、平気でタバコを吸い、吸いがらを線路やホームに投げ捨てる人、唾やタンを吐く人がいたことを思い出した。
歩きながら、電車の乗り降りのときでも、スマホから目を離さないことと、タバコを公衆の場所で吸ったり、投げ捨てるのとは違ういう人がいるかもしれない。だが、同じだ。
歩きながら、電車の乗り降りのときでも、スマホから目を離さないことと、タバコを公衆の場所で吸ったり、投げ捨てるのとは違ういう人がいるかもしれない。だが、同じだ。
同じように周囲に迷惑をかけている。タバコより始末が悪いのは、それで人とぶつかる。場合によって、ホームであれば、人を線路に落とすことにもなれば、自分が線路に落ちることにだってなる。
こうした人が増えているということは、いろいろな場で、目配りも気配りも、気働きもできない人が増えているということだ。
こうした人が増えているということは、いろいろな場で、目配りも気配りも、気働きもできない人が増えているということだ。
いや、私は違う。多くの人はそういうだろう。
だが、半径数メートルの視野しかもたない人には、他人に迷惑や不快感を与えて、気づいてない。これは、ひとり、スマホだけのことではない。
自分のペース、自分の都合、自分の思い。それだけを守ることに精一杯なとき、人は、やっているようで、じつは、目配り、気配り、気働きはできていない。
どうだろう。経済においても、政治においても、どの分野においても、そうしたことのできない人たちが、あたかも、それがあるように生きてはいないだろうか。
だが、半径数メートルの視野しかもたない人には、他人に迷惑や不快感を与えて、気づいてない。これは、ひとり、スマホだけのことではない。
自分のペース、自分の都合、自分の思い。それだけを守ることに精一杯なとき、人は、やっているようで、じつは、目配り、気配り、気働きはできていない。
どうだろう。経済においても、政治においても、どの分野においても、そうしたことのできない人たちが、あたかも、それがあるように生きてはいないだろうか。
人への気遣い、当り前の礼儀。それができない人たちに溢れていく国は、美しい日本とはいわない。形ばかりで、日本の美の真似事はご遠慮願いたい。