秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

チャらいグローバリズム

私が30代の頃まで、経済はほぼそれまでの常識の中で動いていた。

株価があがれば、大企業を中心に設備投資や賃金に還元され、それが市場へも国民生活へも広がりを持った。円安になれば、輸出関連の企業は好景気になり、生産性は高くなり、賃金にも市場にも反映された。
 
それができたのは、産業構造がそれまでの姿でも成り立つ余地が国内においても、世界においても、まだあったからだ。

簡単にいえば、資本主義における成熟化へ向かう過程では、市場には、こうしたノリシロがある。だが、成熟化を果たしてしまうと、そのノリシロがなくなってしまう。
 
当然だ。成熟化とは、まだ市場にある、かすかな余地を食い潰すことをいうからだ。
 
同時に、成熟化はグローバリズムへと経済を巻き込む。いうまでもない。食い潰す余地がなくなってしまえば、国内ではなく、海外にその食い潰す余地を求めていかなくてはいかなくなる。

結果、生産拠点や販売拠点までもが、国内から離脱し、グローバリズムという名のもとに、海外へと居場所を移す。結果、都市は別として、経済は地方を見捨てていく。

いまの政権は、終ってしまった経済政策をやっているといわれるのは、簡単にいえば、この根本的な構造とそれによって、資本主義の限界、食い潰すノリシロなくなる現実が世界的に押し寄せている事実を無視していることだ。

正確にいえば、意図して無視している。地方を見捨ててでも、あるいは、可処分所得の低い世帯や個人を見捨ててでも、グローバリズムという波に乗ろうとすれば、一部に富が集中することを容認しなくては成立しない。グローバリズムとは、チャらい代理店が煽るほど、素晴らしいものなのではない。

グローバリズムは、いわば、限られた国家間における安全保障なのだ。

金融はいうまでもないが、食においても、エネルギーにおいても、医療いおいても、それをある限られた国々が協調して独占し、互いに富を配分し合うことでしかない。
 
たとえば、食において、開発途上国発展途上国の食の資源がその国によって消費されるのではなく、グローバリズムという経済に食い潰されていく。当然ながら、その国の資源は薄くなる。
 
アマゾン河流域の原生林が伐採によって砂漠化へ向かっている事実は、もう10年以上前から指摘されている。だが、その材木を消費しているのは、ブラジルでもなければ、南米でもない。グローバリズム安全保障連合国だ。

もっと身近な例でいえば、かつての地方を見てみればわかる。北海道のウニやカニ、高価な鮭、あるいは大間のまぐろといったものが、収穫する人々の口には入らず、築地へ卸される。当然ながら、東京という市場が高値で競って食い潰すからだ。

ことほどさように、一部の富める者たちの富に満ちた暮らしを支えるためにしか、グローバリズムは機能しない。
 
株価があがり、大企業が儲かり、都市が繁栄すれば、国全体が豊かになり、明るい未来がくるというのは、いまや幻想であり、グローバリズムに隷従する者たちの詭弁でしかない。

いま必要なのは、地方を軸にした、新しい発想の産業の起業。これまで見捨てていた、地方の市場開拓。それがないところで、すでに限界を迎えている産業構造のまま、あれやこれややってみたところで、雇用も生れなければ、人々の可処分所得を高めることもできはしない。

発想の大転換。それこそが必要なことを、2011年、ジャスミン革命東日本大震災ですでに教えられている。