秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

未明の文章

これまで何度となく、読み下している文章。いつも聞いていた言葉。あるいは、たまたま見たドキュメンタリー、テレビドラマや映画のワンシーンのたったひとつの言葉が深く胸に迫るときがある…。
 
読み物にしても、話し手にしても、映像作品にしても、意図して改めて、何かを伝えようとしているわけではない。
 
だが、受け手である、こちらの心のあり様によって、同じ文面、同じ言葉が違って思えるときがある。

たまたま出会った映像でありながら、理屈や論理を越えて、ただ、ひたすら、自分になにかの気づきを与えてくれることがあるのだ。

私がダイエットを兼ねて、運動を毎日の日課にしたのには、じつは訳がある。
 
この何か月か、仕事や社会活動や個人的なことで、自分のダメさ加減、無力さ、狭さを感じることが山ほどあった。札幌国際短編映画祭で敗北したこともある…そんな自分に、どこかで苛立ち、毎日体を使うこと、苦しいと思うことを課したかった。

いつも事ある毎に、謙虚さが足りないと指摘される私だが、そんなふうに考えていた時期に、また、痛烈にそれを指摘された。
 
反発や反抗心の強い私だ。
 
当然、むっともなれば、むかっともくる。弁が立つ分、ふき出すと止まらない。さすがに、少しは大人になって、やみくもに、人とぶつかることはしなくなったが、向こうっ気の強さは、私のような仕事では、時に必要な分、心にさざ波が立つ。
 
だが、そんな私でも、指摘されたことは、心のどこかに置く。
 
人の指摘を素直に受け止められない、素通りしたい自分と、いや、待て。これは、少し冷静に考えてみるべきことなのではないか…と自問する自分がいる。
 
それは、いわば、自分の中にある、いろいろな思いとの葛藤だ。
 
人に言われたことを拒絶する閉じた自分…。心の中で、指摘された人の批判をしている、本当にいやな自分…。だが、逆に、言われたことを人を拒絶しないで、生かす道を探す自分がいる…。
 
心の中でその双方がぶつかっているときは、素直になれない。いや、素直になってはいけないとさえ思っている。
 
だが、ふっと力が抜けるように、自分のとらわれていたもの…自分の姿が見えたとき…
 
ああ、あの言葉はこういうことだったのか…と気づく…。
 
私は、同じ時期、人から、こわい…といわれていた。その言葉の意味も考えていた。だが、ずっとわからなかった。いや、わかったような気でいた。

そして、気づいた。それは謙虚さが足りないと指摘されたのと同じことだったのだ。
 
平常心なら、そうならないでいられることもあるだろう。だが、あれもこれも手詰まりな分、心が荒れる。すると、手詰まりの理由を人のせいにしてみたり、まわりののせいにしている自分がいたのだ。

しかも、それを当然のように、正当なことのようにして、押し切るだけの言葉や行動の腕力が私にはある…人の気持ちやこうしてほしい、こう言葉を返してほしい…それを踏みつぶしていた…
 
こわいというのは、そういうことなのだ…。
 
気づいたのは、昨夜、1時間ほどしか眠れず、未明に読んだある文章だった…。

そうか、オレは、こんなに人に石を投げ、棒で打つような心になっていた…どんなにか、周りの人は圧力を感じていたことだろう…

申しわけなさで一杯になった。なんと未熟で、情けない奴だ…ちっともこれまでの失敗や苦労から学んでいない…

札幌国際の敗北は、自分でも気づかなかったが、それほど大きな重石を私に乗せていたのかもしれない…

どれだけのことができるかはわからない。だが、ここでもう一度、どんな言葉にも、どのような言動も、受けとめて、ひとつひとつに本当に心から感謝ができ、人の思いを尊重し、尊敬できる自分にならなくてはいけないと思う。

福島応援学習バスツアーの募集は、そんな私なのに、私を受け入れてくれている人たちの姿を通して、もっと深く考えよ…ということだったのだと思っている。