秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

この笑顔がある

人にはいろいろな課題があるだろう。いろいろな事情や事情がつくりだす、困難もあるだろう。そして、自分の課題、自分の困難がまず、最初の解決すべき問題と思うのも自然なことだろう。

だが、私は思う。自分が課題や困難だと思っているものは、自分がそう思う重さでしかない。もちろん、人の抱えるそれと、自分のそれとを比べることはできない。
 
ある人にとって、重いと思う課題や困難は、他の人からたとえ、そう見えなかったとしても、やはり、重いのだ。だから、人は、自分のことでいっぱいになり、人のそれにまで思いが及ばない。あるいは及んだとしても、なにもすることができなくなる。
 
だが、私は思う。そんなときこそ、自分のことはとりあえず棚に上げて、自分以外の人のそれのために、微力でも何かを尽くすことだ。それでしか、自分の課題と困難の実体が見えないような気がする。

もう15年ほども前だが、高校時代の同級生で、鉄鋼所をやっている友人が初めて、うちに泊まったことがある。そのとき、会社経営の苦労を聞かされた。何億という負債をかかえ、もう万歳するしかないところまで追い込まれた。
 
だが、彼は家族や社員のためにできることをと、事業計画書をつくり、銀行に追加融資の申請をした。おそらく、切実な思いでそれを書いた。幸いにして、その計画書に込められた彼の思いが、それまで融資を渋っていた銀行マンに伝わった。当座の危機を脱したのだ。
 
泊まりに来た夜、酒を飲みながら、今朝、手形が割れなくなって、信頼関係のある社員に100万円を融通してもらってきた…そういう彼の顔は、歪んではいなかった。それもありさと笑っていた。もちろん。すぐに返済の当てがあってのことだ。
 
私は、当時、数千万の借金でおろおろしている自分が恥ずかしくなった。そして、それは私に、勇気をくれた。自分なんかが苦しむより、もっとたいへんな苦労をしている奴がいる。それでも、見栄や体裁を捨てて、歯を食いしばって、がんばっている奴がいる…それを見ることで、知ることで、自分の抱えている課題の姿、重さの比重がわかった。

私は思う。社会へのなにがしかの貢献や人へのなにがしかの奉仕や支援というのは、自分が安全で、安心で、物理的に余裕があったら、やればいいことではない。

それは
それで、人々や社会に役立つだろう。だが、自分自身にその痛みや苦労や困難の少しでも、実感として、体感として、わかる人が、ゆとりも、余裕もないからこそ、やる意味があると思う。
 
そこにこそ、支援や応援という枠ではなく、共に悩み、共に考え、共感し、行動するという姿が現れると信じるからだ。
 
気の毒だなとか、大変ねとか、苦労しますね…というのは、共に歩もうとする人間には浮かばない言葉だ。一緒に、泣き、共に、励まし、それでも、なにもできないことに申しわけなく、無念に思う。なにかを与えることはできなくても、その申し訳ないという自分の非力さへの自覚と無念さは、必ず、人の心に届く。

そう思えるのも、自分にも形が姿、規模や形態は違っても、同じように、課題と困難があるからではないだろうか。

写真は、福島市郊外にある、abe果樹園の阿部さん。福島市郊外には、広大で見事な果樹園が広がっている。震災前、オートバイレースの世界で生きていた男は、金銭的にも負担をかけてきた親の老いに、家業を継いだ。
 
やっと仕事をマスターし、これもやろう、あれも取り組もうと新しい農業への挑戦を踏み出そうとしたとき、震災が来た。そして、風評被害。だが、知恵をめぐらし、SNSを活用し、応援してくれる人々を顧客に組織しながら、独自の販売ネットワークをつくっていった。目指すのは世界。
 
私がMOVEを立ち上げたときとまったく、同じ考えの人だった。いま阿部さんは、地域の休耕地を借りうけて、果樹園や農地として再生しようとしている。農業を捨てる人の痛みを知り、学び、だからこそ、それで終わらせないという決意がある。ゆとりのない中でも、それをやる。そこに、この笑顔がある。
 
 
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