秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

古傷

からだというのは、正直だ。というか、予知能力があるw

昨日、ずーんずーんと、13年前にやった胸膜炎のときの注射針を挿入したところが痛い。もしかしたら、明日は雨になるのでは…。予感通り、今朝、わっと雨がきて、ほぼ丸一日、小雨の降る湿度の高い日になった。

若い頃、車を運転していて、後ろからオカマを掘られた事故の後遺症で、梅雨時が近づくと、首と肩がバリバリに固まって、軽い頭痛がするということがしばらく続いた。
雨が降る前はとくに、それがひどかった。頚と肩が固まると雨がくるなとわかるのだ。
 
首の動きが少し固いのは、いまでもそのせいだが、以前のように固まることはなくなっている。
 
その代り、高校生の時にやった盲腸の手術あとと胸膜炎のときの注射針のところが、湿度が高くなり、雨が近づくとしくしくとか、ずーんずーんとか痛む。メスを入れる。からだを何かで傷つけられるというのは、そうした傷の痛みを残す。

子どもの頃からだが、湿度が高くなる季節の端境期には、からだがだるくなり、ひどい倦怠感に襲われる。気圧の変化に弱い。だが、それは低気圧が来たあとだ。
 
前日や二日目くらいに、その予兆を知らせてくれるのは、古傷。

人には、心にも傷がある。古傷を抱えて、かさぶたになって、ぽろりとかさぶたが剥がれ落ち、もとの心のひだに戻れる傷はいい。
 
だが、くっきりと、私の盲腸の傷のように、心の表裏に残っている人もいる。
 
あるいは、傷跡に気づかれないように、厚く包帯を巻くように、人にわからないように、笑顔や饒舌で隠している人もいる。陽気な酒席にいることで、それを気づかれまいとしながら、痛飲している人もいるだろう。

地雷を踏まれるように、周囲の人や相手には悪意はなくても、そのいろいろに隠したり、ごまかしたりしている傷跡にさわられて、古傷を負った、そのときのような激しい痛みに襲われることもある。
 
周囲や相手は、どうして、その人が苦しげなのか、あるいは、不機嫌になってしまうのかがわからない。わからないから、自分たちがその人の古傷にふれたことに気づけない。
 
それが悔しく、苦しく、そして、虚しく、腹立たしい。
 
あるいは、どうして、そうなってしまうのか、古傷を見せたり、説明はしたくないが、でも、この人だけには、そんなに鈍感であってほしくないと…
 
その人に古傷にふられたような言動をされると、わからないその人が悔しくて、でも、いえなくて、ひどいだだをこねるように、激しくその人に激昂し、怒りや苛立ちをぶつけるということもある。

だが、古傷にふれたことはわからなくても、その傷を負っている人の激しい苛立ちや怒りの姿を感じて、あ、傷にふれたか、その古傷を思い出させるようなことを言ったか、そうした態度をとってしまったのだな…と気づくことはできる。

それは、その人にも古傷があるからだ。

だが、古傷の痛みを知っているから、逆に、つまらない、ありがちな慰めの言葉や歯の浮くようなやさしい言葉はいえない。
 
ただ、ひとこと、ごめんね…といってあげればいいのだけれど、だからとって、苛立ちや古傷の痛みが癒えるわけではないのだけれど、たった一言いえるとしたら、それしかない…のだけれど
 
それをどのタイミングでいったらいいのか、激しく苛立っている、傷ついた人の前ではどうしていいか、わからないことが多い。
 
互いに大事にされたい、したいと思いながら、古傷がその壁となって、思いの糸を結ぶことが簡単なのに、できない。

からだの傷の痛みに、天候の予知能力があるなら、心の傷の痛みに、予知能力があってもいいものなのに、傷ついてしまった心は、その痛みがよみがえると、頑なさでいっぱいになる。予知どころではない。

予知できないところで、ぼくらは、どうしたら傷を癒せるのか、迷いながら、戸惑いながら、失敗しながら、探し続けている。