必要としているもの
人や地域の支援というのは、ただ支援すればいいわけではない。何を、どのように支援し、どういう形で自立へ導くのか、あるいは、自立の意欲を育てるのかが、問題なのだ。
やみくもに、なんでもかんでも支援すればいいのではなく、かつ、なんでもかんでも支援などできはしない。
やみくもに、なんでもかんでも支援すればいいのではなく、かつ、なんでもかんでも支援などできはしない。
同時に、支援が必要なモノ、コト、ヒトとそうではないモノ、コト、ヒトとをきちんと分けて考える、支援する側の方針や理念による線引きがいる。
方針や理念を持たないと、本当に支援を必要としている人や地域の現実とはちぐはくなことをやり、的外れな活動で現場を混乱させることもある。
同情や憐憫、あるいは友情で何かを支援するというのなら、それはそれでいい。
方針や理念を持たないと、本当に支援を必要としている人や地域の現実とはちぐはくなことをやり、的外れな活動で現場を混乱させることもある。
同情や憐憫、あるいは友情で何かを支援するというのなら、それはそれでいい。
だが、情感や心情といったもので、人や地域が本質に抱える問題やいつも私がいう取り残されていく問題への取り組みはできない。
現場への聞き取りと取材、人の声を聴きとり、その中から、仕組みや質のいいネットワーク、周囲から信頼され、信用される心情を越えた、理知のネットワークが必要になるからだ。
現場への聞き取りと取材、人の声を聴きとり、その中から、仕組みや質のいいネットワーク、周囲から信頼され、信用される心情を越えた、理知のネットワークが必要になるからだ。
支援はするのではなく、組み立てることなのだ。支援は与えるのではなく、受け止めることなのだ。そして、それをこちらの好きに加工したり、造作するのではなく、見守り、手を貸し、知恵と心を貸すことでしかない。
また、そうしたことが必要なコト、モノ、ヒトこそ支援を必要としているものであり、支援をしていかなければならないものだと私は確信している。それらは、必ず、自立への欲求があるからだ。
そこの、その地域の人のなかで、もっとも手を尽くさなければいけないこと。手を必要としていること。生活とその日常に根差したこと。そこに目を向けて支援活動や協働の取り組みをしているところがもっとなくてはいけない。
そこの、その地域の人のなかで、もっとも手を尽くさなければいけないこと。手を必要としていること。生活とその日常に根差したこと。そこに目を向けて支援活動や協働の取り組みをしているところがもっとなくてはいけない。
そこへ活動の舵を切るところが増えていかなくてはいけない。いや、活動でなくてもいい。個人でも、数人の仲間とでもいい。
いま、それを被災した地域だけでなく、この国の地域がどこも必要としている。