秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

白紙のページ

世の中には、だれもふれたくない仕事、やりたくない仕事というのがある。
 
牛や豚を解体する食肉センター、いわゆる屠場での仕事を進んでやりたいという人はいない。
 
あるいは、孤立死など死後時間の経った腐乱した遺体や遺体のあった部屋を片付ける仕事を選んでやるという人もいない。
 
災害死、事故死、あるいは薬物や入水、絞死といった変死体の遺体処理をやりたいという人もいないだろう。
 
傷ついた遺体の修復や葬儀関連の仕事もそうだ。

いまではすっかり、福島の原発廃炉作業や濾水処理の報道がされなくなってきている。除染作業の実態や汚染廃土や瓦礫の一時保管状況とそれにかかわる作業の実態も明らかにされなくなっている。
 
原発事故の収束作業、廃炉作業にせよ、除染作業にせよ。それらが暴力団やその支配下にある暴走族系の職にもつけない連中、ヤミ金サラ金の負債を抱えて身動きのとれなくなった中高年、あるいは、暴力団系列に類する、孫請け、ひ孫請け企業によって、ずさんな処理や対応がされていることをマスコミは大きくとりあげない。

すべての原発関連作業事業者がそうだとはいわない。だが、そうしたものが紛れているのも確かな事実だ。

国民や県民の安全と生活にかかわる情報をこれほど軽く扱かわれ、重視しない国、国民というもの珍しい。
 
そのくせ、ありもしない過剰放射能の情報や被爆による障害や新生児の異常出産情報が流布され、過度な反応も呼んでいる。いわゆる風評であり、被爆地域への差別と偏見だ。

要は、きちんと情報と向き合う、精査する、現実を知ろうとしてないことが大きな要因。

知らない、知ろうとしない、知らせようとしない…。それは実態をあいまいにし、過剰な反応も呼べば、同時に、すべてはなかったことにするというカッティングオペレーション、情報の隔離が起きる。

世の中のふれたくない仕事、やりたくない仕事というのはその闇に存在する。

私はいま、3年以上が経過した福島の現実がますます歪になり、当初からモザイク状態だったものが、一層、細分化され、個別化され、そして、あるものは、孤立していると感じている。

前向きに、明るい未来を信じ、目指して歩むのはいい。そうしたにぎわいを求め、創造するのも悪くない。
 
だが、自分たちの置かれた現実、自分たちの地域にある、孤立したままの現実。そこへの真摯なまなざしや取り組み、置き去りにしないという志がなければ、すべては表層で終わるだろう。
 
それは、他の地域の人々から表層に過ぎないと見限られ、かえって、地域への悪印象を他の地域の人々に与えかねない。
 
細分化され、個別化され、あるものは孤立していても、私たちは共にあるという高い精神性と志が内になければ、風評やそれにもとづく、偏見や差別も打破はできない。
 
それは、決して、福島及び線量の高い地域を持つ、東北の他県の問題だけではない。

この国の人々が、維新以後、臭いものに蓋をして、食肉の現実を闇にしてきたように、自分たちの生活に存在しながら、見えないものし、生活に「白紙のページ」(屠場の現実を描いた、拙作のドキュメト作品タイトル/教育映像祭優秀作品賞)をつくる悪癖、悪習の打破もできなくするということだ。

白紙のページは、必ず、社会のどこかに日の当たらない闇をつくる。