共同体の日常
町内、商店街には、必ずといっていいほど、世話好きのおばさんというのがいた。
町内、商店街には、必ずといっていいほど、口うるさいおじいさんというのがいた。
祭りや地域の催事の折には、年齢による序列があって、歳上の者は威張っている代わりに、歳下の者の世話と指導をした。
そして、またその歳上の者には、彼ら彼女らを指導し、彼らより威張り、だが、彼らを世話をする壮年たちがいた。
そして、壮年たちは、家庭のことや仕事のこと、地域のことで問題が生まれると、年長者の家を訪ね、相談した。
親戚であるより、他人である方が大方、それは都合がいい。だから、それら大事なことは、親戚ではなく、他人なのに、人や地域のことに親身になれる人が相談役を引き受けた。
あるいは、女たちだけのコミュニケーション。井戸端会議やその延長にある婦人会や地域の芸事の中で、女たちの力で解決できることもあった。男たちの知らないところで、そっと女たちが形をつけることもあったのだ。
そうした共同体には、決まりがあり、約束事があり、ルールがあった。それは、日々をつつがなく人々が過ごすために、長い時間をかけて、地域に、人々に共有されていったものだ。
そうした共同体には、決まりがあり、約束事があり、ルールがあった。それは、日々をつつがなく人々が過ごすために、長い時間をかけて、地域に、人々に共有されていったものだ。
そして、それは同時に、時として、人の自由を縛り、人や世間の目を過剰に意識させ、新しいことを拒絶し、若い世代の挑戦の目をつぶした。だから、人を息苦しくもさせた。
だから、町内、商店街、地域には、みんなが知りながら、表沙汰にはされていない、秘密がある。
息苦しさをまぎらすために、不倫があり、夜這いがあり、町の女がいて、痴情の空間が、決まりと約束事とルールで保たれる同じ空間に、そっと存在した。
そして、それが時折、表沙汰になるような事件、刃傷沙汰や暴力を生み、町を出ていかざるえない人がいて、そっと出ていく人もいた。
だから、その出ていった人が、またそっと、ある別の町や地域に住みつくということもあったのだ。地域は、その理由を問わない。代わりに、様子をみて、地域の邪魔にならないとわかるまで、地域と溶け込もうとする姿を見るまで、見極める。
だが、その過去を問うことはしない。それが地域の安全弁としても機能したのだ。
その煩わしい、共同体がよくも悪くも、バランスを生み、子どもを教育する力を生み、子どもを大人にし、大人を大人にしていった。失ってはいけない、倫理や道徳、社会規範の基礎をつくっていたのだ。
その煩わしい、共同体がよくも悪くも、バランスを生み、子どもを教育する力を生み、子どもを大人にし、大人を大人にしていった。失ってはいけない、倫理や道徳、社会規範の基礎をつくっていたのだ。