秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

共同体の日常

町内、商店街には、必ずといっていいほど、世話好きのおばさんというのがいた。
 
町内、商店街には、必ずといっていいほど、口うるさいおじいさんというのがいた。
 
祭りや地域の催事の折には、年齢による序列があって、歳上の者は威張っている代わりに、歳下の者の世話と指導をした。
 
そして、またその歳上の者には、彼ら彼女らを指導し、彼らより威張り、だが、彼らを世話をする壮年たちがいた。
 
そして、壮年たちは、家庭のことや仕事のこと、地域のことで問題が生まれると、年長者の家を訪ね、相談した。
 
親戚であるより、他人である方が大方、それは都合がいい。だから、それら大事なことは、親戚ではなく、他人なのに、人や地域のことに親身になれる人が相談役を引き受けた。
 
あるいは、女たちだけのコミュニケーション。井戸端会議やその延長にある婦人会や地域の芸事の中で、女たちの力で解決できることもあった。男たちの知らないところで、そっと女たちが形をつけることもあったのだ。

そうした共同体には、決まりがあり、約束事があり、ルールがあった。それは、日々をつつがなく人々が過ごすために、長い時間をかけて、地域に、人々に共有されていったものだ。
 
そして、それは同時に、時として、人の自由を縛り、人や世間の目を過剰に意識させ、新しいことを拒絶し、若い世代の挑戦の目をつぶした。だから、人を息苦しくもさせた。
 
だから、町内、商店街、地域には、みんなが知りながら、表沙汰にはされていない、秘密がある。
 
息苦しさをまぎらすために、不倫があり、夜這いがあり、町の女がいて、痴情の空間が、決まりと約束事とルールで保たれる同じ空間に、そっと存在した。
 
そして、それが時折、表沙汰になるような事件、刃傷沙汰や暴力を生み、町を出ていかざるえない人がいて、そっと出ていく人もいた。
 
だから、その出ていった人が、またそっと、ある別の町や地域に住みつくということもあったのだ。地域は、その理由を問わない。代わりに、様子をみて、地域の邪魔にならないとわかるまで、地域と溶け込もうとする姿を見るまで、見極める。
 
だが、その過去を問うことはしない。それが地域の安全弁としても機能したのだ。

その煩わしい、共同体がよくも悪くも、バランスを生み、子どもを教育する力を生み、子どもを大人にし、大人を
大人にしていった。失ってはいけない、倫理や道徳、社会規範の基礎をつくっていたのだ。
 
自助、互助、扶助といった価値観と体系は、こうした共同体の悪しき一面からこぼれていく人のための救済の手段として、自立の手段として生まれたのだ。

今日、盂蘭盆会法要に参加して、そのことが頭に浮かんだ。お盆法要に限らず、日常にある、生活の節目、季節の流れの中にある、祭事。そのあたり前のひとつひとつをいつものように迎える。
 
それを生きる人の日常は、そうした共同体が生んだ日常だ。多様性と過剰流動性の中で、かすんでいく、私たちの日常。それを復権することでしか、安心ややすらぎ、今日を生きる力と誇りはもたらされない