秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人好き

ある人は私のことを人好きだという。
 
確かに、演劇にせよ、映画にせよ、イベントにせよ。人を集合し、コミニュケーションを持ち、アイコンタクトを含め、言葉にしなくても通じるなにかが共有できなければ、仕事はできない。まして、そのほとんどは人と人の思いを描くものだ。

しかし、だからといって、決して、人好きというわけではない。逆に、人が集合し、コミュニケーションを持ち、アイコンタクトを含め、言葉にしなくても通じるなにかを共有しようとすればするほど、人のいろいろな面を見なくてはならず、人のいろいろが透けてみえてしまうものだ。
 
私は、決して人が好きなのではなく、作品をつくることが好きなのだ。あるいは、プロジェクトを実現することが好きなのだ。
 
そのためであれば、人のいろいろな面を見ることも、透けて見える人のいやらしさにも目をつぶることができる。

なにより大事なのは、自分が描きたい世界をそれとわかる形で人に伝え、共感なり共鳴を創造することで、決して、人好きでそれをやっているのではない。

よく集団や組織、それが利益の追及を目的としないものほど、人好きな仲良しグループであろうとする。大して深い知り合いでもないのに、その目的を共有しているような錯覚の世界に入ることで、心が通じた集まりになろうとする。

あるいは、利益追求の集団や組織であっても、志を共にしているという錯覚を装うことで、連帯した集りであろうとする。錯覚しなければ、連帯の軸を失うからだ。
 
だが、そんなものはどこにもない。あったとしても、早晩、砕ける。もっても1年か2年がいいところだろう。心が通じた集りにせよ、志を共にした集りにせよ。それが先にあるからおかしなことになる。
 
心を通じ合わせて、あるいは、志を共にできるのは、ごくわずかなところでしかない。
その中で、なにを、だれのために、どう実現していくのか。それが先になくてはいけない。
 
人と集団というのは、その過程でそれぞれの思いを問われ、志を問われるのだ。鍛えられるのだ。先に同じ思いや同じ志がそこにあるわけではない。仮に、リーダーや幾人かの人間にあったとはしても、それがすべてに共有されているという錯覚で現実をごまかさないことだ。

冷徹かもしれないが、その構えがあって、集団や組織はやっと長い年月をかけて、志のある集団、組織に育っていく。だから、結果的に1年や2年では終わらなくなる。
 
未熟でも、たどたどしくても、わずかずつでも、前へと歩み続けることができるのだ。

そして、その歩みの過程で、いとしいと心から思える人たちと出会っていくのだ。そのとき、人は人好きにも、人好きのお人好しにも、いくらでもなれる。