秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

評価と信頼

いいウワサ、あるいは、いい評価。それをえるためには、時間と努力がいる。だが、それが、悪いウワサ、あるいは、悪い評価に転じるのはあっという間だ。
 
信頼を得るには時間がかかるが、信頼を損なうのには時間はかからない。
 
また逆もいえる。いいウワサ、あるいは、いい評価は、簡単に手に入る。だが、簡単に手に入れたものは、同じように、失うのも簡単だ。

信頼を得たと安心して、あぐらをかいていると、それを失うのも一瞬ということだ。

ことほどさように、人や世間の信頼や評価をえることは容易なようで容易ではない。また、それを持続させるというのは、たやすいことではない。
だから、たやすいことではないと、常に、心の構えをどこかで整えておかなくては、手から砂がこぼれるように、いまあるものを失ってしまう。
 
そうなるのは、評価ばかりを当てにして、信頼をえることに比重を置いていないからだ。
 
なぜか。評価には代償があるからだ。評価があれば、それは人的、物的、経済的な見返りが生まれる可能性が高い。
 
だが、信頼は、それが目に見える代償としてはすぐに現れない。いや、目に見えてそれとわらからないことの方が多いだろう。

なぜなら、評判・評価のように世間的な広がりよりも、ひとりの人の心の中にしっかりと根付くまで時間がかかり、かつ、それゆえに、世間的な広がりに時間がかかるからだ。そして、広がったからといって即物的な見返りがあるものではない。
 
信頼をえるとは、代償を求めて真実えられるようなものではない。
 
情報や権威などに依存する世間的な評価よりも、人の心を起点とする信頼は、それほど、手間もかかれば、その後のケア(気遣い・心遣い)がいる。

世間的な評価に比重を置く…というのは、じつはこの国の国民性ともいっていい。いわゆる同調圧力に弱い民族だからだ。なにかが話題になれば、それに飛びつく。なにかの権威的証があるとそれで安心する。だから、世間の目や評価が大事になる。
 
評価ではなく、ひとりでいいから、その人の信頼をえる。そこから出発すれば、人への好き嫌いや打算や保身のために、人を貶めたり、謀るようなことはできなくなる。

人はごまやしもやれば、ウソもつく。人が思うほどに、立派な人間はいない。だが、この信頼をえようとする思いがあれば、それを変えていける。

いまの世の中、信頼よりも評価が先にあることに、すべての問題の根源がある。