エロスとタナトス
子どもの頃は、自分の先の時間よりも自分が生まれる前、生の始まりにある死やその闇の世界に興味があった。まだ、生を受けてまもない分、死や誕生の闇が身体の記憶として新しいということもある。
中学生や高校生になると、生の始まりにある死や闇の世界以上に、いまをどう生きるかに必死だったし、夢中でいられた。
つまり、これからのことより、過去かいまにしか目が向いていなかった。世界が狭く、知識や経験が限定されているから、そうならざるえない。
だが、大学、そして社会人として生きるようになると、年齢とともに、「いま」と同時に、「これから」「そのあと」が気になるようになる。
知識や経験が増えることもあるが、「いま」という時間が記憶や記録として残る…ということを意識するようになる。つまり、生をどう生きるかの執着と欲が心を支配する。
だから、先へと目が向く。同時に、家庭を持ち、子どもを持つとなると、さらに、「これから」の「そのあと」と、さらに、「それから」が気になりだす。
それは、ひとりひとりの生活が重くなるから当然と多くの人は思うだろう。それもあるが、一番の要因は死が近くなるからだ。
それは、ひとりひとりの生活が重くなるから当然と多くの人は思うだろう。それもあるが、一番の要因は死が近くなるからだ。
意識するとしないにかかわらず、死へ向けたカウントダウンが始まっていることを大人になると、だれもが内在化している。そして、どこかで自覚的になる。
しかし、じつは、エロスとタナトスは不可分の関係。生への欲求と死への欲求とは決して別々のものではない。それを人は死という姿の中で人々に示し、遺していく。これは、ギリシャ悲劇の基本となっている。
寸暇を惜しむ…ということばがあるが、私流でいえば、それは、エロスとタナトスを生きよということだと思っている。死を遠ざけ、忌むのではなく、それをも生とひとつのものとして、生のエネルギーにかえる。
寸暇を惜しむ…ということばがあるが、私流でいえば、それは、エロスとタナトスを生きよということだと思っている。死を遠ざけ、忌むのではなく、それをも生とひとつのものとして、生のエネルギーにかえる。