秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

エロスとタナトス

子どもの頃は、自分の先の時間よりも自分が生まれる前、生の始まりにある死やその闇の世界に興味があった。まだ、生を受けてまもない分、死や誕生の闇が身体の記憶として新しいということもある。
 
中学生や高校生になると、生の始まりにある死や闇の世界以上に、いまをどう生きるかに必死だったし、夢中でいられた。
 
つまり、これからのことより、過去かいまにしか目が向いていなかった。世界が狭く、知識や経験が限定されているから、そうならざるえない。
 
だが、大学、そして社会人として生きるようになると、年齢とともに、「いま」と同時に、「これから」「そのあと」が気になるようになる。
 
知識や経験が増えることもあるが、「いま」という時間が記憶や記録として残る…ということを意識するようになる。つまり、生をどう生きるかの執着と欲が心を支配する。
 
だから、先へと目が向く。同時に、家庭を持ち、子どもを持つとなると、さらに、「これから」の「そのあと」と、さらに、「それから」が気になりだす。

それは、ひとりひとりの生活が重くなるから当然と多くの人は思うだろう。それもあるが、一番の要因は死が近くなるからだ。
 
意識するとしないにかかわらず、死へ向けたカウントダウンが始まっていることを大人になると、だれもが内在化している。そして、どこかで自覚的になる。
 
幼い頃は、死や誕生の闇、心理学ではタナトスというが、そちらが強いのが、成長、加齢につれて、エロスが強くなる。だから、タナトスから距離を置こうとする。
 
しかし、じつは、エロスとタナトスは不可分の関係。生への欲求と死への欲求とは決して別々のものではない。それを人は死という姿の中で人々に示し、遺していく。これは、ギリシャ悲劇の基本となっている。

寸暇を惜しむ…ということばがあるが、私流でいえば、それは、エロスとタナトスを生きよということだと思っている。死を遠ざけ、忌むのではなく、それをも生とひとつのものとして、生のエネルギーにかえる。
 
そうした心持でいれば、年齢を重ねても、いわゆる、ふけることはない。老いることはない。ふけと老いは、エロスかタナトスかのいずれかのみに精神が傾くから表に現れる。

昨年11月から続いている繁忙さがもう少しでひと段落する。これだけの忙しさは久々のことだ。NPOの「福島応援学習バスツアー」から今期作品3作品。受注のDVD制作とCD制作。その中の1作品は、短編映画ながら、国際映画祭コンペディション作品。

英語字幕のチェックをやって、次は映画撮影協力の御礼まわりとCM制作に取り組む。寸暇を惜しむ時間がまだ少し続く。