秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

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世の中をどう見るか。あるいは、世の中における自分の位置、居場所がどこかのかを見極める…というのに必要なことが、ひとつある。
それは、どこを向いて、何をみているかを常に意識することだ。
 
人は往々にして、自分には世の中はみえているものだと思い込んでいる。
 
だから、自分のいまいる居場所、世の中を見ている位置は普遍で、ゆるぎなく、
かつ、それは絶対のものだと思う。
 
つまり、自分が安心・安全な場所にいて、僅少で歪曲されたまなざしで、世の中を斟酌し、ああでもない、こうでもないと世間や人や世界を批判したり、非難したり、
あるいは、こうすべきと主張する。
 
だが、果たしてそうなのか。
 
自分はわかったような気になっているだけなのではないか。
 
見えていないものがあるのではないか。
 
だから、いま自分が安心安全だと高をくくっている、この場所も、この居場所も
いつなにかによって失われ、奪われ、踏みにじられることだってあるかもしれない。
 
だとすれば、どうすれば、その危うさを平穏に変えることができるのか。
 
そう考えられる人は
 
だから、リテラシーが高く、自分のいる居場所からではなく、自分がみよう、みつめようとしている場所や人の側から世の中を見ることができる。
 
つまり、他者への共感、異なる場所、異な生活を送る生活者への協働から
世界を、社会を、地域を、生業を、家庭を、人を見ようとできるのだ
 
私の言葉でいえば、「他者性を生きる」ことで、人は自分の世界を広げ
自分のいる居場所は決して安全安心ではなく、たまたまいまそうだけであって
いつそうではない危うさえを共有し
 
だからこそ、共にあるとしなくてはいけない
共にあるために協働しなくてはいけないと
開くことができる。
 
いまはそれが、危ういがゆに、強靭な防波堤を築こうとか
不安だから筋トレして体力をつけ
格闘技を深めて、身を守るとか
危さに危うさを上乗せすることの方が先走っている
 
それは法や制度、社会システムですべては形がつくと勘違いし
人を、生活者を、生きるということを見ていないからだ。
 
確かに。多くの問題は法や制度、社会システムの変更によってしか
変革できない。
 
だが、その前に、しょせんは、そのような高邁なことを語る自分も
ひとりの生活者、人間、生物にすぎないということに気づき
謙虚でなくてはいけない。
 
排泄もすれば、セックスもし、酒に酔い、ときには悪さもやり
そして、人を傷つけ、裏切り、保身にも走る弱い存在でしかない
ということに気づきを持つことだ
 
平時において、それができたとしても、乱にあって、それができる保証は
だれにもない。
 
乱にあってそれができるという拠り所となるのは
だから、唯一、共にあると思える人間かどうかにかかっている。
 
どのように主張や意見が異なろうとも、どのように制度や思想、肌の色が違おうとも
みんな生きている
 
閉じるな、開け
 
そこにしか明日への道はないのだ。