秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

今日を生きる

このところの忙しさのせいか、昨今のお天気のように、カラダのあちこちに要注意警報が出ている。
 
昨日、秀嶋組の照明マンのSにもいわれたが、自分がやりたい、やらなくてはとモチベーションをもったことに取り組んでいると、いろいろな困難や繁忙さはあっても、やすみたいとか、ここでやめようとか、くじける気持ちは生まれない。
 
カラダにいい、悪いは別にして、自分が選択し、自分が歩もうとしている道だかこそ、無理もすれば、やり抜こうという意欲につつまれる。
 
とりわけ、私の福島への取り組みも、いまの仕事も、だれかに指図されたわけでもなければ、だれかに命令されたわけでも、ましてやそれをやらないと人に迷惑をかけるという類の義務にかられたものではない。
 
同時に、私がどれだけムキになろうが、私がどれだけ思いを抱こうが、それが社会的な評価や富につながる類のものでもない。
 
もし、私がなにかで倒れ、いま取り組んでいることが、なくなったとしても、それはだれかが困ることでも、だれかが嘆くこともでもない。ひとつ、そうしたものがなくなった…その程度のことしかしていないし、その程度のものでしないと思い定めている。

だからこそ、自分が目標として描いたことや人やなにかの出会いの中で、このためにやらなくてはと思ったことは、やり遂げるか、やり遂げようとしていなければ、いなくなるときに悔いが残る。
 
それまでの歩みを評価できるのは、最後に自分しかいないからだ。自分に恥じないこと。それが何よりも大事だと思うからだ。
 
そうした生き方の選択は難しいという人がいる。だが、果たしてそうだろうか。
 
人のために、何かのために、自分のいのちを使えたら、それほどの喜びは人生にない。それをだれもがじつは知っている。

知っていることをただ、やればそれでいいのだ。短い、長いは関係ない。社会的な評価や名声、富も関係ない。生きたということに悔いを残さないために、人は今日を生きている。