思い残し切符
昨夜Twitterに「明日に向かって走れ」と呟いた「吉田拓郎」
今年の年末は、身近にあった大切ないろいろなものがなくなっていく。
そのすべてが今年の晩夏には、私の生きる生活の場からなくなるのだろうと予感させるものだった。
そして、25日のクリスマスに、大切な仲間のひとり、かけがえのない友のひとりが、1年近い闘病生活の末に亡くなった。
いずれも、これまでにないほど、社会活動も本業の映画制作も、映像事業の仕事も重なって、多忙な年の終わりのことになった。ゆっくり別れを告げることも、時間を過ごすこともできなかった。
年末年始に、溜まっている自分の書き物以外で、これだけ年末年始を感じられず、また、そのための始末や手配も用意もできないことは、初めてのことかもしれない。
しかも、今回どの仕事にも、それをある時期までに完成させなくてはいけない都合や事情があり、かつ、その都合や事情も自分のためではない。
いずれも、これまでにないほど、社会活動も本業の映画制作も、映像事業の仕事も重なって、多忙な年の終わりのことになった。ゆっくり別れを告げることも、時間を過ごすこともできなかった。
年末年始に、溜まっている自分の書き物以外で、これだけ年末年始を感じられず、また、そのための始末や手配も用意もできないことは、初めてのことかもしれない。
しかも、今回どの仕事にも、それをある時期までに完成させなくてはいけない都合や事情があり、かつ、その都合や事情も自分のためではない。
それは、これまでいろいろに自分を変えてくれ、成長させてくれた福島、そこに生きる人々への自分にできるお返しであり、あるいは、それをつくることで多くの人になにがしか、いま求められる大切な思いを伝えられるものだ。
つまり、私のことは置いておいても、どうしてもある時期までには完成させる使命と責任、そして役割を感じさせられるものばかりということだ。
「早くかけよ」という目で私を見る、酒豪編集Rによくいうが、私は、私だけの欲のために、なにかをまとめるということができない。苦手だ。だが、そこにだれかのため、なにか社会や人のために、という使命や義務感のようなものを感じるとどんなに発狂に苦しんでも形にする。
つまり、私のことは置いておいても、どうしてもある時期までには完成させる使命と責任、そして役割を感じさせられるものばかりということだ。
「早くかけよ」という目で私を見る、酒豪編集Rによくいうが、私は、私だけの欲のために、なにかをまとめるということができない。苦手だ。だが、そこにだれかのため、なにか社会や人のために、という使命や義務感のようなものを感じるとどんなに発狂に苦しんでも形にする。
今回は普通に考えれば、タイムリミットを切っている。それでも焦らないでいるのは、その自分にもらった役割をありがたいと思い、そのために、身を削ることを厭っていないからだと思う。
人には思い残し切符というのがある。いろいろな思いを抱きながら、人はだれも求めるゴールにたどりつけるわけではない。あるゴールにたどりつけても、また次のゴールがくる。だから、人には常に思い残し切符が最後まで残るのだ。
その思い残し切符を拾い集める仕事。それが私の仕事だと心に決めている。
無念さや悔しさや…あるいは、忸怩たるものや恥じ入るものをすべてつまらない尺度で斟酌せず、あるがままに、拾い集め、それをひとつの形にして人々に示す。
そのためには、どんな試練があっても、最後まであきらめない。私があきらめないことが、せめて、受け取った思い残し切符を人々の目にふれさせる最初の一歩だからだ。