秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

学さんのこと

学さんへ
 
学さんと出会ったのは、2011年「大いわき祭」直前、当時、副理事長をやってくれていた小林隆さんの紹介でした。日商岩井の元上司と部下というつながりで、お二人のつながりを大切に思った私は、メンバーになってくれた学さんとは当初、それほど直接、言葉を交わすことは少なかったかと思います。
 
学さんは、当時、会社での職責も重く、かつ、経営の転換期にもあったことから、「大いわき祭」後、MOVEの会合に参加することもなかなかできず、そのことをいつも申し訳ないと連絡をもらいました。
 
では、学さんの都合のいいときに逢いましょうというと、いつも、「監督が二度手間になるのでは。時間は大丈夫なのですか…」と気遣いを忘れない人でした。そうして、二人だけで会ううちに、次第にあれこれ語り合うようになりました。学さんの仕事のこと、趣味のこと、そして私が目指すMOVEの活動のこれから…
 
「会合や交流会になかなか参加できないですから、せめてこれくらいはやらせてもらいます」と口ぐせのようにいいながら、可能な限り、MOVEの活動に時間を割こうとしてしてくれましたね。
 
二人で酒を酌み交わすようになり、私は学さんの物腰や人柄に強く惹かれていきました。また、言葉少ない中にある、的確な視点と意見に、学さんの力はMOVEにとってかけがえないものと深く実感していきました。
 
2012年の「福島東北まつり」では、開催日の二日間、万難を排して参加してくださり、その事前準備過程では、元同僚の成田さんをメンバーに紹介してくれました。IT関連の人脈をたどって、「福島東北まつりの」スポンサーも紹介してくれました。
 
それは、私のメンバーへ向けてのイベント開催費用を集めようの言葉に、そっと学さんが応えてくれたものです。会員を増やすことで会費を集めよう、イベントに協賛できる企業はどこかにないだろうか…会社の職責も重い中、学さんは会合や打ち合わせに参加できなくても、そうやってMOVEのために心を砕いてくれていました。
 
そのことに、私がどれほど感動し、心を打たれ、そして、感謝したか知れません…。
そして、学さんという人の、おだやかで言葉少ない中にある確かさと温かさを感じていたのです。
 
「福島東北まつり」後、本格的に市民ネットワークサイトSmart City FUKUSHIMA MOVEの立案が始まると、固定したこれまでのネットワークサイトとは視点、目指す姿が違うゆえに、メンバー内でも理解されないところがある中、私の願う社会貢献を前提としたサイトの姿をすぐに理解し、かつ、そのために何が必要かを的確にアドバイスしてくれました。
 
そして、まさに、MOVEの活動を理解し、かつスキルと発想力もある永木くんを紹介してくれました。人柄もまるで学さんのような人でした。学さん同様、Smart City の目指すことをすぐに理解してくれ、この事業にかかわるMOVE内の理解ある担当メンバーと共に、年明け2月始めからその実働作業に入ることができたのです。すぐに会社に戻らなくてはいけないからと、学さんのために、銀座のニュートウキョウでランチをしながら、メンバーと打ち合わせもしました。
 
「福島東北まつり」後、体調がよくないといっていた学さんはいくつも病院や治療院に通っていました。40肩じゃないかい、50肩では…とその頃から、かつて胸膜炎でICUに搬送されたことのある私は、学さんと体調のことを語るようになっていました。二人ともヘビースモーカーでした。
 
原因がわからないまま、年を越し、Smart Cityの初期概要もまとまり出した頃、学さんからメールをもらいました。検査入院などで、Smart Cityの会合に参加できないと連絡をもらっていた頃です。
 
「監督。癌でした。いまは、身内以外でお知らせしたのは監督だけです」。
 
私は、いつものように淡々とし、けれど、きっと治療して復帰しますというメールに、それがいつもの学さんの静かな口調だったからこそ、強いショックを受けました。そして、「当面、この件は、私ひとりの胸におさめておきますから」と励ましの言葉に添えたのです。
 
その夜は、ひとり痛飲しました。なんで、学さんのようなすばらしい人が!…だれにもいえず、そんな思いで何杯も酒をあおりました。
 
入院治療の最初の頃、会津バスツアーが終わり、八重たんの人形と千疋屋びわを持って、私ひとりで御見舞いに伺い、「お腹がすくんです」とひょうひょうと語る学さんに少しだけほっとしながら、一昨日までは抗がん剤治療の副作用が激しくて…という奥さんの言葉に、事態の大変さを直感しました。
 
「見ていることしかできないことがつらいです…」。決して悲愴にはなく、病状を淡々と説明してくださる奥さんの言葉に、奥さん、お子さんの不安と悲しみもみえたのです。
 
学さんは外見からはそうみえませんが、体育会系のハートを持っていました。
 
奥さんにやさしい言葉をかけるより、無言でそれを感じさせる人だったのだろうと思います。多くを語らず。そんな学さんを奥さんはだからこそ、愛し、心配し、動揺もされたいただろうと思うのです。

最後に学さんに会ったのは、情報が関係者に知られるようになった頃でした。Smart Cityが内部公開までこぎつけ、その報告をかねて永木くんと、MOVEの副理事長の加藤さん、理事・事務局長の佐川さんと見舞いにいったときです。
 
だれにもいっていませんでしたが、学さんにみてもらい、少しでも元気になってほしくて、8月には内部公開をするぞと心に決めていたのです。
 
「ごはんが食べられなくってきました」。そういう学さんは、だいぶ痩せ、くじけそうな思いになると正直に話してくれました。私たちが帰るとき、歩くのもつらいのに、エレベーターのところまで、奥さんの手も借りずに見送ってくれましね。
 
その姿は、なにかと必死に戦っている戦士のように、私にはみえたのです。言葉にしなくても、しゃきっとした自分を示そうとする兵士のようでした。そして、その姿に、なんとしても生き抜こう。生き抜きたいという強い思いを感じました。
 
学さんと最後にやりとりしたのは、福島応援学習バスツアーに出発する前日でした。晩夏に見舞いにいくと、「そろそろですね」と今年開催予定だった福島東北まつりのことを楽しみにしているように聞いてくれました。
 
「学ちゃん。お金がなくてね。まつりは来年に延期しようと思うんだ。それにSmart Cityの告知宣伝にも力をいれたい。それで、まつりに代わって、福島応援学習バスツアーをやろうと思ってる」。そういうと、学さんは、ああ、それもいいですねとその内容を静かに聴いてくれました。

「学さん。なんとか人も集まって、ツアーが実施できるよ。学さんの思いも持っていきます」
私のそのメールに、すぐに返ってきた言葉は、「監督。歩けなくなりました…それでも、治療に取り組んでいきます」というものでした。

私はいいねの手のサインを送るのがせいっぱいでした。そして、もうあまり時間は残されていないだろうと思ったのです。ツアーから戻り、年内の雑務が片付いたら、岩瀬牧場で買った蜜の入ったりんごを持って、見舞いにいこうと思っていました。
 
毎月1日すぎには、メールをしていました。その度に、病状を知らせてくれましたね。「前向きになっても、心がくじるけることもあるだろうから、愚痴をいってください。聞きますよ」そういう私に、学さんは、くじけそうな気持になるときもありますと素直に、闘病生活のつらさを短い言葉にして返してくれました。
 
学さんらしい、そのさりげない言葉は、私に、そのつらさ、苦しさ、そして不安を感じるのに十分でした。

26日のMOVE放送の編集作業をやっていた、25日。明日でずっと続いていた慌ただしさが一段落するな…と午後、少しのんびりしようかとしていたときでした。元同僚の成田さんから、学さんが亡くなったという連絡をもらいました。

正直、多くの人が、学さんが亡くなったという実感が持てないでいます。あるいは、その死が現実のものではないと願っている人もいると思います。早すぎる…その思いはみんなのものです。
 
山が好きで、いつもひょうひょうとして、物静かに人の言葉、意見に耳を傾け、しかし、大事なところでは、自分の考え、意見を決して押し付けずに、しっかり語り、だれもが納得する結論に導いてくれる人でした。
 
下ネタやけなしのジョークにも、うれしそうに笑い、下ネタからカクメイだという私の酔ったときの口ぐせに、満面の笑みで応えてくれました。
 
学さん。ほんとにありがとう。ほんとうに、ほんとうに、学さんがいてくれたことで、Smart Cityを形にすることができました。学さんが元気でいたら、きっと福島応援学習バスツアーにも参加してくれたと思います。Smart Cityのこれからについても、アドバイスや意見をくれたと思います。
 
体調のいいとき、学さんがfacebookをのぞいていたのを知っています。MOVEのSNSも、MOVEページもみていてくれていたのを知っています…
 
決してリタイヤすることは考えず、復帰する。その決意と思いは感じていました。
 
学さん。学さん、がんばったよ。普通の人なら耐えられない治療を…耐えられない闘病生活を必死に闘ったよ。お子さんのこと、奥さんのこと、仕事のこと…いろいろな思いを残し、きっと無念だったと思います。
 
だけど、がんばったから。無念な思いは、オレたちが引き受けるから、闘わないでいい時間をこれから過ごしてください。学さんのことは、決して忘れませんから。

学さんに会えて、ほんとによかった。だから、また、いずれ会いましょう。