秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

最善を尽くしてもらいたい

自分にできる最善を尽くす。それは、営利を前提とすれば、だれにでもできることだ。

あるいは、自分にできる最善を尽くしていると思っていても、他者からみれば、最善を尽くしているとはいえないことも多い。
 
そもそも最善などという基準はない。人それぞれに最善の基準は違うし、ただ自分のためだけの最善だとすれば、そこに最善という言葉を使うこと自体おこがましい。
 
あるハードルを勝手に自分で決めて、それが一定の高さになると、それはもはや自分のできる最善ではないと人は考える。それは、自分の努力への言い訳であり、かりにそれが他者のためであったとしても、結果として、言い訳でしかない。
 
何かに最善を尽くそうと努力している人は、間違っても自ら最善を尽くしましたとはいわないものだ。

もっとやれたのではないか。自分で自分の限界を設けてしまったのではないか。もっと自分に力があれば…。何事かに取り組んで、そう考えるのが極めて自然であり、そう振り返られるからこそ、最善足らんと精進する。
 
敷居を低くしたところで、それが飛び越えられない理由に、この言葉は使ってもらいたくない。

自分が少し敷居を高く設定するだけで、それまで救えなかった人たちの幾人かが救えるかもしれない。救えなかったとしても、励ましにはなるかもしれない。そのわずかなことができなければ、人にとって成長もない。
 
自分の都合よりも、いまある他者の都合。そのどちらに比重が置ける人かで、その人の人柄だけでなく、生き方や思想まで人眼には明らかになる。

誇りや矜持、人としての人間力というのは、そうしたことの積み重ねの中でつくられるのだ。
 
言い換えれば、志の問題。

人や周囲に恥じない自分であろうとすれば、自ずと自分に投げかけれられた問いには応えようとする。どうしてもそうできないときはできない自分を悔いるし、恥じ入る。
そして、それに代わる応え方をするものだ。

人には、ときとして生活の糧をえるためのものを越えてでも、立ち向かい、取り組まなければいけないことがある。人にはときに、恥じ入る自分でないために、負けるとわかっていて、闘わなくてはいけないことがある。
 
それをして初めて、人は最善を尽くすということの意味がわかる。

今年、福島東北まつりを延期にした。それに代わって福島応援バスツアーを企画した。これも、最善を尽くせないがゆえに、別の形で、期待してくださっていた方々に応えるためだ。
 
同時に、そこに子どもたちの映画視聴も設定した。今回の福島応援。じつは、MOVEのメンバーにとって、福島東北まつりを実施するより価値がある。私はそう確信している。
 
そのために、メンバーには最善を尽くしてもらいたい。