秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

教育とは正しさを教えることではない

発見や気づきのない教育は、教育とはいえない。また、発見や気づきと出会わせ、それを教えられた側が自ら成長の糧としていけるものでなければ、指導ともいえない。
 
私たちの演劇や映画の世界では、自分の過去の作品の実績や業績めいたものを語り、まるで自慢話のように、俳優やスタッフ、これからそうしたものを目指す人たちに、だから、こう考えなくてはいけない、こうしなくてはいけなのだととても教育とも、指導とも思えないことを語る人たちが有象無象いる。

きちんとした実績や業績を持っている人、あるいは、現実にいまその仕事に携わっている人は、短絡的に、そうした話はしないものだ。そうした表層的な言葉を語ったところで、俳優もスタッフも育たないことをよく知っている。

大事なのは、きちんとした教育の場、仕事であれば現場の中で、理論と実践がかみ合う指導の場を持つこと。
 
示し、実践させてみて、考えさせ、気づきと発見と出会わせ、そして、自ら創意工夫して、さらに実践させる…すべての教育にこの手続きがなくてはいけない。教育とは与えるだけでも、語るだけでは意味がない。

自らを主役とさせ、自らやらせてみてこそ、問題点を認識でき、克服しなければならなに課題に気づけるのだ。気づきがあるからこそ、それを克服するために何をしなくていはいけないかが自覚できる。自覚できれば、それは克服するための行動に変わっていく。
 
手を貸すのではなく、それを忍耐強く、待ち、折々に前へ進むための叱責や励まし、そして必要なときに必要なサポートをする。基本にあるのは、愛を注ぐということだ…それが教育というものだ。

かといって、じつは、そうしたまともな視点で教育の場がどこにでもあるとはいえない。大事なのは、冒頭にもいっているように、理論と実践の噛みあいを持った教育メソッドが教える側に備わっていることが不可欠。

ただやみくもに、現場にいれば身につくというものでなければ、個人的な趣味や感覚をあたかも普遍的な教育の理論と勘違いしているような人間から教えられれば、バイアスのある、まちがった教育を指導と勘違いしてまう。

宗教に経典というものがあり、教育にテキストがあり、教科書があるように、普遍的な教育には、体系に基づく理論がある。感覚的なものもあるが、それは体系に照らせば、必ず、ある合理性や妥当性にたどりつく。

その数学的ともいっていい体系の中では、気づきや発見さえもきちんとした仕組みの中にある。そこには、善悪の基準や道徳的な規準などといったものはない。単純に冷静で、ある意味冷徹な数学的体系、人の生理や感性さえも内包した、常識や善悪を越えたものの世界にあるのだ。
 
教育とは、だれかが思う、その時代が思う正しさを教えることではない。挑戦する勇気と挑戦する自由と幅を教えることだ。