秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

明日に咲く花

明日に咲く花…ではなく、人は、今日の今日、いまのいま、花を咲かせたいと思う。とりわけ、若いときはそうだろう。
 
早く、他人や世間に認められたいと考えているからかもしれない。あるいは、親や家族との確執や逆に親や家族への恩義から、それに応える応え方をそれしか知らないために、今日の花を急ぐ場合もあるだろう。

場合によって、それは肉親ではなく、かつての恋人や教師や友人や後輩や…もろもろのいままでの人間関係からかもしれない。

あるいは、これまでその在り方、進め方、手がかりを探し出すことができず、かつ、ほとんど当てにならないものにしがみついたばかりに、無為に時間を過ごし、もはや残された時間がないと思いちがいして、そう考えるかもしれない。

明日に咲く花であろうとできず、いまのいまの世間や人の評価を求める人は、花を咲かせることの意味がわかっていない。そうした人は、結局、いつになっても花など咲かせられないものだ。
 
簡単なことだ。その人たちは、花を咲かせることが自分のため、自分の花を咲かせたいと思っているだけだからだ。
 
よく考えてみるといい。花が咲くとは、花がさも美しだろうと自分で満足するために咲かせるのではない。それを見た人たちが、その美しさや可憐さ、素朴さに心を癒され、あるいは感動することで、咲いた意味を初めて生み出せるのだ。
 
もっといえば、種の保存のために、美しく咲き、ハチなどの虫や鳥を媒体として、いのちをつなぐためにそうしているのだ。自分のためのようだが、それでも、ハチたちや鳥たちが、それをめでない限り、美しさも可憐さも何の意味をなさない。

人との確執や恩義や、つまらない虚言の世界に踊らされ、無為に過ごした時間や、手がかりのないまま、徒労したことへの反逆や反抗、見返しとしてそれがあるのではない。
 
そんなつまらないこととはまったく無縁に、自分が懸命に花を咲かせることで、どこかのだれかが、いろいろな思いや苦しみや悲しみ、人にいえないつらさや悩みを持つ人が、その花をみて、少しだけ元気になり、少しだけ前向きになり、あるいは、少しだけ人生や社会やいのちについて考えるようになる…

そのために咲くのだ。それができるまで、耐えて、こらえて、務めて、明日、咲くから、美しいのだ。