秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ずっとずっと奥

覚めた人と覚めていない人がいる。正確には、覚めたように見える人とそうではない人というのが正確かもしれない。
 
何事につけ、なにかひとつの事象があるとすぐに感情の起伏が表に出る人と、どこかそれを遠くで眺めているように、心がじっとしているように見える人というのがいる。
 
喜怒哀楽が明確な人というのは、きっといい人に違いない。これまでの経験から、そうした人はわかりやすい。そして、あからさまな分、実は人がいい。だが、わかりやすいから安心だという面もあるが、わかりやすいからつまらないという反面もある。
 
もちろん、喜怒哀楽の落差の程度による。あまりに、それが激しく、ジェットコースターのようだと周囲は、わかりやすいと思う前に、ひどく緊張することになる。いわゆる熱い人だ。基本、熱い人は、周囲を振り回す。

そこまでいかなくても、見聞きしたことに簡単に、わかりやすく感動し、それを直接的でありがちな言葉で表現するあまり、それがどこかウソっぽくみえたり、じつは、なにもわかってはいないのではないのか…という印象を人に与える人もいる。
 
実際、深く人や周囲を読んでいない。だから、何にでもすぐに感動でき、その感情をわかりやすい、さほどおもしろくない言動に表してしまう。偏見や差別、決めつけと思い込みもそうしたところか出てくる。

物事はそれほど簡単ではないのだが、そうした人はおそらく、どこかでこうした感情の表現をすることが、人々に喜ばれ、そういう自分が支持されると思い違いをしている場合が多い。

 
一応に、なにかに一生懸命なのだが、ひたむきさとあからさまな感情表現の違いがわかっていないからだ。ある意味、自分の感情の動きはだれもがそう思う、正しさなのだと履き違えている。

だが、覚めた人というのもいただけないところがある。何を考えているのかわからないというだけではなく、自分の気持ちや感情をあらわにして、傷つくことを怖れているいるのではないかと疑われる。実際、そういう人は少なくない。
 
冷静沈着に、状況を分析、把握し、本質を見ようとして覚めた人もいる。冗談やおバカな話題もにぎやかにやりながら、それでも、人の気持がどう動いているのか、眼の奥で心を凝らしている人だ。
 
同じ覚めた人でもいろいろ。だが、自分が自分がとしゃしゃり出ない分、人からは穏やかに見える。
 
しかし、本当に覚めた人というのは、ただ、覚めている、退いているというのではなく、いうべきときには語り、理不尽な事柄や筋の通らないことにものの言える人だろう。のべつまくなしではない。「ここ」というときに、「これを」ということがいえる人だ。
 
そうした人は、覚めた雰囲気の中で、じつは心が動いている。覚めているようにみえる姿の奥で、言葉や動いている。
 
ものをつくる人間、表現する人間、なにかの事柄を進める人には、激しい情熱も必要だが、これが一番求められていると思う。表の姿のずっとずっと奥で、言葉や感情が動く…だから、出てくる言動はどのようなものでも、説得力と人を惹きつける魅力が生まれる。

昨日、台風で荒れる中、窓を打ち付ける雨と風の音を聞きながら、原稿を書いていて、気分転換につけたテレビで、堀北真希主演の連ドラ「ミス・パイロット」をやっていた。偶然見た、久々のテレビの連ドラ初回放送。なかなかいい。
 
力をつけている俳優というのは、だれもそうだが、台本のセリフの前に、その言葉とは別に、心のずっとずっと奥で、自分の言葉と感情が動いている。