秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

モグラたたき

人は新しいものを生み出す、創造する…というとき、二つの道に分かれる。正確にいえば、決して分かれてはいない。だが、浅薄に新しいものを生み出せると考える人は、それが二つに見える。
 
ひとつは、これまでの既存の価値や概念、もっといえば、それに基づいてくつくられた行動原理や実績を全否定して、ゼロから始めなくてはいけない…という考え方だ。
 
もうひとつは、これまでの既存の価値や概念、行動原理や実績を全否定するのではなく、それを反転させる、あるいは逆転させることで、生かしつつも生れ変わらせる道だ。
 
浅薄に新しいものを生み出せると考える人は、当然ながら前者を選択しようとする。だが、大方というか、歴史が証明しているように、そんなことを人類はひとつとして、できていない。
 
なぜなら、これまでの人類が積み重ねて来たものの上で、その人たちは「新しいと思えるもの」を生み出したにすぎなく、そこには、否応なく、既存の価値、権威や力に依存している。
 
この国の維新を見ても、それは明らか。戦後の日本を見ても明らか。なにひとつ、本当の意味で新しくなったものはない。単に、壊しただけだ。

自分たちにとって、都合のいい価値、権威や力は受け入れながら、都合のよくない価値、権威を否定する…そのどこに新しさがあるだろう。
 
はっきりしている。有史以来、人はゼロから、あるいは過去の全否定からなにかを生み出せたことはないのだ。だから、なにか次の新しいものが生まれても、それが次の時代の否定の対象となる権威と力に変わってしまう。

逆に、全否定して失ったものがある分、後々、禍根や遺恨を残し、反対勢力の醸成を促し、新しいと思えたものが地に落ちる…ということになる。
 
秋元康がいいことをいっている。人が新しいと思う、トレンドや流行、ブーム、ムーブメント、あるいは、新開発商品、もっといえば、制度…それは、みんなかって存在したものだ。それを新しいと思うのは、モグラたたきゲームのように、出てくる穴が違うからそう思うだけに過ぎない。
 
底流にあるものは同じで、それが顔や形を変えて出現し、それを新しいと思っているだけに過ぎない。
 
正論だ。たとえば、彼がつくったおニャン子にせ、AKBにせよ。これは、かつての花柳界における、芸者の集団舞踊と同じ。もっと遡れば、出雲の阿国に始まる遊女歌舞伎が原型にある。
 
おニャン子にせよ、AKBにせよ、あるいは芸者の芸にせよ、遊女歌舞伎にせよ、それぞれの時代に顔を変え、形をかえ、システムを変えて登場しているだけのこと。たまたま、ある時代のあるニーズにそれが当たったというだけのことだ。
 
しかし、人はそれがいままでない新しいものと錯覚する。つまり、新しいものとは、その程度のことでしかなく、その程度のものでしかない。

物理学者や数学者が新しい発見をいうとき、そこには、それまで積み重ねられた過去の物理学者や数学者の研究と研鑽があって、初めて生まれる。逆に、物理学者や数学者はそのことをよく知っている。
 
たとえば、オレの専門の英文学でも、シェークスピアを原書で読むためには、欧米人ですら、シェークスピアグロッサリーという専門の辞書を使わなくては読めない。
 
この過去の知識の集積によって、オレたちは、かつての人々の苦労を経ずに、容易にシェークピア研究ができるのだ。そこで新しい論文が生まれたとして、それは全否定からは生まれはしない。
 
つまり、新しいものとは、過去の否定からは生まれないのだ。ここには、自分たちが生きてきた地域、その古さと課題を自覚しつつ、決して全否定することなく、福島の人々のために何ができるかを考える人たちがいる。
 
 
写真は、うちのメンバーのひとりが震災後からかかわり、協働してきた、相馬市のはらかま朝市クラブの代表、高橋さん。水産しかこれといった産業のない地域で、相馬に踏みとどまり、いまでも先の見えない苦難の中で、相馬の歴史を引き受けながら、相馬の明日を拓こうとしている。

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