秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

生きざまは語っている

昨夜、連日のワークショップで疲れたからだをオフにして過ごした。前日の予告で知った、NHKスペシャル。それをみていて、深く反省させられた。
 
ボスニアの紛争の頃、福岡で、ある講演に招かれたことがある。羽田から福岡へ向かう飛行機の中で、英字新聞を頼み、一面に目をやると、ボスニア紛争で孤立した難民に救援物資を届けるため、国連軍が国連難民弁務官事務所と協働して、物資を空からパラシュートで投下する計画が実施された…とあった。
 
講演は、人のつながりや人の救済をテーマにしたものだった。その話の中で、オレはこれを事例にあげ、素晴らしい救援計画だと前置きして、だが、本来なら、人の手をつかって、難民に物資が届けられなくてはいけない。それができない現実こそ問題にしなくてはいけない…と語った。
 
その計画を実施したのが、緒方貞子という高齢の高等弁務官と知ったのは、それからしばらくしてからだった。
 
ボスニアコソボといった紛争地域に仲間たちが支援調査のために行くようになり、実際に支援基地を現地の置くようになって、国境を隣接し、長く民族の対立を生きた地域が、民族浄化という名のもとに、レイプを当然のことする現実も知った。対立民族の女性を妊娠させることで、その血を自国民の血に変えていくというものだ。
 
単に殺害だけではなく、そうした理不尽さが当然とされる紛争、戦争…。
 
ソマリアの紛争のときには、じつは、親友のひとりから難民キャンプの衛生教育のために、現地にいき、映像取材して、現場で編集して啓発のためのビデオを制作してくれないかとも頼まれた。親友の所属する団体では、危険地帯へ人を送り込めないためだった。
 
オレは家族の反対を押して、行くつもりだったが、虐殺と報復の暴力で治安はさらに悪化し、オレの意志に関係なく、家族を安心させる結果になった。あまりに危険なため、計画が中止されたのだ。

そうした折々の国際紛争の現場に、緒方貞子の名前があった。
 
人はなにかあると、できるかできないかを前提に物事を考えたがる。できるかできないかではない。どうしたらできるだろうかと考えるところにしか、人の救済も社会や世界をよりよい方向へ変えていく力も生まれない。そのための知恵も浮かばない。
 
できるかできないかを前提とするのは、それまでの慣習や慣例、常識や決まり事に自分たち自身が支配されているからだ。
 
自分はともかくも、いま目の前に困窮し、明日のいのちも危ういという状況に人々がいるとき、そんな悠長なことも、保身に満ちたことも考えられないのが普通だ。しかし、その普通が通じない現実は、いくらでも世の中にはある。

同時に、その困難に自ら身をおけば、ただ物資を与え、安全を確保するだけで終わるのではなく、いかに教育が大事であるか、自立へ向けた取り組みとその意欲を育てることが重要かがわかってくる。

同族同士、同じ紛争被害者同士、同じ被災者同士で優劣を競う場合でも、利権の奪い合いをやる場合でもない。だが、そうした状況だからこそ、パイの奪い合いや対立は日常化する。
 
それが激しくなるのは、そうではない人々、世界の人々が関心を失ったときだ。直近の例では、アフガンしかり、イラクしかり…。人々の眼が向いているうちは、激烈なパイの奪い合いも国際社会や国内の眼を気にして暴発することは少ない。だが、一旦、人々から関心がなくなると、そうしたものは一気に吹き出す。
 
そして、そうした現実を前にして、人は、パイの奪い合いの醜さに嫌気が差し、それまであった関心を失う。あるいは、その醜さを非難し、否定し、侮蔑する。だが、それは、結果的に、苦難にある人々を見捨てることになるのだ。
 
昨夜の緒方貞子の言動をみていて、ふと、自分の中にある否定の心を見透かされたような気がした。誠実に困難と立ち向かう人たちだけを賞賛し、そこに立ち行けず、パイの奪い合いをやる人々をどこかで否定している自分がいる…ということに気づかされた。
 
そうではないのだ。否定は無関心を呼ぶ。支援や協働の構築を拒む要因になる。どのような状況においても、すべてにおいて善悪の基準や正義を計量とするのではなく、その人たちそのものをすべて同じ苦難にある、いのちとして、認めていかなくてはいけない。
 
その先にしか、できるかできないかばかりを考える愚かな人間たちの躊躇と保身を打破していく力はないのだ。忍耐。それがいかに大事か。緒方貞子の生きざまは語っている。