いつかだれもいなくなる
肩書や実績のない人ほど、肩書や実績に弱い。
また、多少ばかりの肩書や実績がある人ほど、それをひけらかす。
いつもいうが、肩書や過去の実績というのは、人そのものを表象するものではない。単なる属性。本性ではない。
問題なのは、いま、その人が何をやり、何に取り組み、何を生み出そう、つくりだそうとしているかだ。その姿こそが、その人を表象し、その人がどういう人なのか、どの程度の人なのかを示している。そこに、肩書も過去の実績も意味がない。
だが、いまの自分に自信のない人は、その自信のなさを何かの肩書や実績を利用することで埋めようとする。自分自身は心血削るほどに、何事かにかかわっているわけでもないのに、さも、自分がそれを推進する重要な存在であるかのようにふれまわり、自分のからっぽさを悟られまいとする。
悟られないために、肩書のある人や実績を積んでいる人を利用する。この人と自分とは親密で、自分がふれまわっていることにウソはないのだ…というように見せるために。
だが、それは愚かなことだ。一時は多くの人をだませても、現実にまみれていないのだから、語る言葉に深みはついてこない。また、仮に評価をされても、それはその人のものではない。足場と実体がないことは、早晩、底が割れる。
だが、それは愚かなことだ。一時は多くの人をだませても、現実にまみれていないのだから、語る言葉に深みはついてこない。また、仮に評価をされても、それはその人のものではない。足場と実体がないことは、早晩、底が割れる。
世の中には、どうしてこうも自分に自信のない人が多いのだろう。自信というのは、誇りを持たなければ生まれようがない。誇りとは、自らが道を拓き、自らがその捨石になるという気概の中でないと生まれない。また、そのための努力、研鑽がなくてはついてこない。
何かにひたむきになるということだ。ひたむになるということは、自分のやっていること、やっている取り組みに愛がなければできない。世間の風聞や評価を求めてではなく、このために、このことのために生きようという無償の決意、つまり愛だ。
それがあるから、人は、そこにその人の誇りを感じるのだ。どのような試練の中でも道を拓こうとする姿に共感するのだ。
それがあるから、人は、そこにその人の誇りを感じるのだ。どのような試練の中でも道を拓こうとする姿に共感するのだ。
安直に、人を利用して、自分の空洞を埋めてはならない。いつか、だれもいなくなる。